世間体を守り続けた母の死で解放感

「やっと専門家につながったのは25歳のとき。市報にひきこもり相談が載っているのを見たから。自分で電話しようとしたんですが、緊張で手が震えてかけられない。何を聞かれるか、答えをシミュレーションして疲れ果ててしまう。そこで母に頼み込んで、やっとかけてもらいました」

 保健師や精神科医がやってきた。ここでようやく家族も事の重大性に気づいたのだ。

そこでも母は世間体を気にしていました。車で病院に連れて行ってくれたのは“歩いていくと誰かに見られるから”。でも、病院に行けば相談できる人もいるし、自助グループも紹介してもらえた。自助グループで知り合った人と自転車に乗ってあちこち行きました。電車に乗るときも、僕はひと駅ずつ降りたけど、それに付き合ってくれた

 そうしているうちに服薬の効果もあって不安がおさまり、症状も出なくなってきた。その過程で精神障害者保健福祉手帳を申請、交付された。

「そのあと福祉作業所でカレーを作っていました。時給250円だったけど、まず規則正しく同じ場所に通って作業することが先決だと言われて」

 同時に短期間のバイトにチャレンジした。工場での作業もしてみたが、精神的なものから彼には頻尿の気もあるので、同じ場所で何時間も立ち続けるのは厳しかった。

「本が好きだから書店でバイトもしました。でも古株がいて、自分から仕事を見つけると“勝手にやるな”と。居づらくなってやめました」

 31歳のとき、母親が突然、倒れた。末期の膵臓がんで余命3か月。父の意向もあり、本人に余命は告げなかった。

「毎日、自転車で30分かけて病院に行きました。母が倒れる1か月前に姉が子どもを産んだので、赤ちゃんの様子を録画して母に見せて。母と話す時間を3か月、与えられたんだと思った。いろいろ話したけど、本当に聞きたいことは聞けずじまいでした。どうして僕を医者に診せようとしなかったのか、外に出たがる僕を抑えていたのか……

 告知どおり、母は3か月後に逝った。母は、母なりに彼を心配していたのだろう。同時に自分の息子が「ひきこもっている」事実を世間には知られたくなかった。それは彼女自身のプライドを傷つけることだったのだろうか。

ひきこもっている本人だってつらいんですよ。ひきこもる自分を肯定しないと生きられない、だけど否定しないと外には出られない。常に葛藤があるんです。母が亡くなったのは本当に悲しくてつらかったけど、一方で解放されたような気もしました