友だちはみんな貧しかった。だから盗みもするし、ヤバい仕事もする。親たちも似たり寄ったりで、水商売をしていたり、風俗で働いていたり、裏社会にどっぷり漬かっている。借金なんて日常茶飯事で、使えるものは体でも子どもでも親でも利用する》

「普通」に手が届くような気がした

 富井さんがそんな考えを改めるきっかけになったのは、子どもの存在でした。長女を出産してからは、子どもや家族を守りたいと思うようになりました。

負の連鎖を断ち切るのは自分だ。せめて自分の代からは、世間一般の人たちが経験する当たり前の生活を送れるようにしたい》

 富井さん夫妻は、ビルメンテナンス業を起ち上げ、寝る間を惜しんで一生懸命に働きます。横になったら起き上がれないくらい疲れ果てる毎日の中で、彼女を支えていたのは「普通」という言葉でした。

その頃の私は、とにかく「普通」という言葉に敏感になっていました。それまでの私には、普通の家庭生活なんてなかった。祖母はいたけれど、それは普通だっただろうか? 普通の家庭って本来は、親が子どもに与えるものなんじゃないの?

 私は自分の子どもに、私が経験したような生活を強いることはしたくありませんでした。結局、私は両親のようになりたくなかったんだと思います。夜の仕事を辞め、表社会の仕事を手伝い、家庭生活も充実させることによって、私が考える「普通」に手が届くような気がしたんです。》

 そのようにして、少しずつ少しずつ、「普通」を獲得していった富井さん夫妻。現在、一般社団法人日本プレミアム能力開発協会を立ち上げ、宮崎市内の飲食店に協力を仰ぎ、ひとり親家庭や経済的困窮世帯を対象に無料で食事ができるチケット配布するという「プレミアム親子食堂」をはじめ、いくつもの支援事業に携わっています。自身の子どもだけではなく、同じような環境で暮らす人々に対しても、少しでもそこから抜け出すための物心両面からの支援を行っています。