浜野は1948年、徳島県鳴門市に生まれた。父は職業軍人、楚々とした美人の母と3歳下の弟の4人家族だった。子どものころから男勝りで、「お母さんのお腹の中におちんちんを忘れてきた」と周りから言われていたという。
「父は戦争で日本が負けたことを許容できず、軍人恩給も受け取らなかった。そんなタイプだから、漁師をしていたんだけど、仕事もあまりうまくいってなかったんじゃないかと思うの」
10歳のとき台風で家が流されていくのを見てショックを受けた。それを機に一家は母の弟がいる静岡県へ越した。母の弟が経営する、伝統工芸品を作る工房で父は働くようになったのだ。
「父は非常に子煩悩で、私を小学校へスクーターで送り迎えするほどでした。映画も大好きで、土曜日の午後は必ず家族で映画を見に行って帰りにラーメンを食べる。チャンバラが多かったけど、それが毎週、楽しみでした」
「お嬢ちゃん、映画が好きか?」
成績優秀だった浜野は、県内屈指の進学校である静岡大学附属静岡中学校へ入学。決して裕福ではなかったが、幸せな子ども時代を過ごした。だが、試練は突然、襲いかかる。
「ある土曜日の朝、父が“頭が痛い”と言い出して。“ごめんね。今日は映画に行けないかもしれない”と。私は不安を抱えながら学校へ行ったんですが、すぐに父が病院に運ばれたと連絡がありました。慌てて駆けつけたけど意識不明。そのまま亡くなりました」
まだ41歳だった。パラシュート部隊だった父は、太平洋戦争末期、太ももに銃弾を受けたことがある。手術はしたが破片が残り、それが血流によって運ばれ、脳の血管が切れたと医師から説明があった。
「あんなに元気でやさしかった父が、たった半日でいなくなってしまう。人間、いつどうなるかわからない。子ども心に真剣にそう思いました」
母はまだ36歳。中学生と小学生の子どもたちを抱えて途方に暮れた。
「ちょうど、叔父の工房も経営が悪化して閉鎖していたので、母は蕎麦屋で働いたり、近所の人のお手伝いをしたり、いくつも仕事を掛け持ちしていました。当時、街中にシネマストリートと呼ばれていた映画館街があって、私は父と一緒に通ったことを思いながら、学校から帰ると映画館街をふらふらしていました。映画を見るお金はないから、ポスターを見て回るんです」
そんなとき、「お嬢ちゃん、映画が好きか?」と声をかけてきた男性がいた。頷くと、彼は自分が働く映画館の奥へと連れて行ってくれた。彼は映写技師だった。まるでイタリア映画『ニュー・シネマ・パラダイス』である。
「そう、まさにあんな感じ。映写室の奥の小窓から、そのおじちゃんにフィルムのことを教わりながら映画を見ました。映画ってこうやって上映されるものなんだ、フィルムはこうつなぐものなんだと心が震える日々でした。映画が私にとって特別なものになっていった時間でしたね」