去る7月の大相撲・名古屋場所千秋楽、横綱白鵬が感謝の花束を贈った人がいる。床山の床蜂さん。白鵬が2004年に十両に昇進して以来ずっと、その髷を結ってきて、名古屋場所を最後に定年を迎えた。

 そもそも「床山」とは、大相撲の力士の誇りともいうべき髷を結う人。相撲協会に採用され、相撲部屋にそれぞれ所属する。力士と同様に地位があり、5等~1等、さらに最高位の特等まであって、全員が名前を「床~」と名乗る。常時50名ほどが在籍し、土俵に上がることはない、相撲界を支える陰の職人集団だ。

 その最高位、特等床山だった床蜂さんこと、加藤章さんは1954年8月17日生まれ。正式に定年退職の日を迎えられたことで今回、特別にお話を伺うことができた。

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2回も部屋を逃げ出した

 床蜂さんの床山としてのキャリアは1968年、まだ中学2年生のときから始まった。父親が交流のあった宮城野部屋で新しい床山を探していて、入門することになったのだ。当時は力士が中学生から入門していた時代で、その前には小学生の行司がいたこともあったそうだが、床蜂さんが入門したころは、すでに力士以外では義務教育卒業が入門の条件で、特例的に見習いとして宮城野部屋に入った。

「最初は何もできなくて、よその部屋から先輩の床山が来て仕事するのを見て、覚え、自己流でやっていったんです。学校から帰ってくると毎日、部屋の序ノ口、序二段の若い力士の頭を借りてやってみる。正直、学校の宿題なんてほとんどやりません。でも通っていた両国中学には相撲関係の生徒が50人以上もいて、先生も『できる範囲でやっとけ』と理解があったんです。

 当時の部屋の親方は(43代横綱の)吉葉山で、『相撲界にいれば周りはみんな年長者だし、後援者はほとんどが年配の人だから、そういう人たちから学んでいけばいい』と言いましたね。吉葉山はまた特に床山を大事にしてくれる人でね。何か怒られるようなことがあっても、翌日にはもう『よし、よくできた!』と褒めてくれる。まだ14〜15歳だから、褒められるとその気になるんですよ」

 しかし床蜂さんは同時期に入門した床山たちに比べると、ご本人曰く「いちばん覚えが悪かった」とか。教えてくれる先輩床山は特に厳しい人で「ちょんまげもろくにできないのに、大銀杏なんてできるわけがない」と、ほかの同期たちが次々に大銀杏を結っていく中で、ずっと大銀杏を結わせてもらえない。

 ちなみに、幕下以下の力士は「ちょんまげ」で、十両、幕内に上がると取り組みのときなどで「大銀杏」を結ってもらえる。頭の上にのった髷が銀杏の葉のように見えるから大銀杏と呼ぶ。

白鵬。左が大銀杏で右がちょんまげ
白鵬。左が大銀杏で右がちょんまげ

 そんなとき、誰かの「同期は大銀杏をやってるのにねぇ」と意地の悪い言葉が耳に入り、積もり積もったものもあって、床蜂さんは悔しさのあまり部屋を逃げ出してしまったという。

「実は入門してすぐにも逃げたことがあるんです。自分、小さいでしょう? 周りがデカい人ばかりで怖くなってね。だから、それが2回目。自分には才能がない、床山は向いてないんだと思いました。ところが自宅に戻ったら、家の前に見たことのある車が止まってる。親方の車です。慌てて裏口から入って二階に上がり、エンジン音がしたから帰ったと思って下りて行ったらバッタリ。部屋に戻りました」