自分の身体に傷をつけ、存在を消そうとしていた彼。この子はね、性別は「男」だけど、女性になりたかった子なんです。
いまでこそLGBT(性的少数者)という言葉が社会で認知されて、「男と男が結婚して何が悪いの?」というような風潮に社会が変わってきたけれど、10年前の彼が小学生だったころは、今とは全然違いますよね。
「男のくせに」「女のくせに」という言葉が平気で飛びかっていた時代です。その時代に、この子は『ふつう』であることを強いられ続けきた。
好きな色の可愛いカバンが持ちたくて、ピンクのカバンをもっていくと、同じクラスの男子からいじめに遭う。先生からは「おまえは男やからピンクなんか持つのやめろ」と忠告される。
なぜダメなのかと問い返しても、先生たちは説明する言葉を持ちません。
そして、こんな言葉を彼に投げる。
「ほかの子を見てみ。みんな『ふつう』やろ? おまえだけ『ふつう』じゃないんや。『ふつう』のことくらいできへんかったら、学校に来られへんぞ」
この子はそんな言葉を敏感に受けて、自分で姿を消そうとした。それが100本の線になって残っているんです。
こういうこと、子どもに限らず、大人でもありますよね。私もこんな経験があります。
「人って、見えるところしか見ない」
規模の大きなシンポジウムに講師として呼ばれたときのこと。来賓席には大きな花と名札を胸につけた市長さんがおられるような会です。そこに、あえてジーパン姿で行ったんです。
そうしたら、会場のおえらいさん方が、私の顔を見る前にジーパンに目を落とす。それだけで、「誰や、こんな講師を呼んだん!?」ていう空気が流れて、「失礼なやつ」と言いたげな顔を向けて、挨拶もなく目もあわさない。
『ふつう』の大人なら、こんな場にジーパンなんかはいてこないだろう。そう思っているのがありありと感じられました。
人って、見えるところしか見ないんです。私はそんなのへっちゃらですよ。でも感受性豊かな、繊細な心を持った子どもはそれで傷つけられる。
でもね、見えないところを見る大人がひとりでも増えたら、消えてしまおうとか、自尊感情をズタズタにされる子どもが少しでも減るでしょ。みんなが変われなくても、気づいた人間がひとりでも変わればいい。
学校でもそうです。「先生の言うことおかしいと思うよ」って言える親や地域の人、そんな大人が誰かいれば、その子は助けられる。