「残り3分の0対3のビハインドで、田村が見事にゴールキックを決めてくれた。それで同点になった後の最後のワンプレーで、彼がカウンターアタックを仕掛けて突破し、ここしかないところにロングパスを通して、逆転のトライを演出。
その後のコンバージョンキックも決めた。私もコーチ陣もベンチも父母会も学校関係者も泣きながら抱き合うような奇跡のプレーでした。いろいろヤンチャもあったけど、お釣りがくるくらい恩返しして卒業しましたね」
「当時から大物」の声も
高校時代の田村はなかなかのヤンチャ坊主だった。
「授業中にうるさかったから立たされて。そんな状況なのに、先生が黒板に向かう隙を突いて、隠れて弁当を食った。田村の父親に言ったら夜中に愛知からすっ飛んで来ましたね」
田村は当時、吉岡監督が建てたアパートに下宿していた。
「父親がブラウン管のテレビを寝てる田村に向かって投げつけて帰ったと。田村はひじで払い除けたみたいですが、それからあいつは爆睡。親父がいるわけないから、夢だと思ったそうです。当時から大物でしたね。図太い(笑)」
ラグビー元日本代表であり、W杯に2度出場、世界選抜にも日本人で唯一、3度選出されているラグビー界のレジェンド、吉田義人氏は自身もOBである明治大学監督時代、田村を指導した。
「プレーだけを見たときに、これはものすごい才能だとは感じました。大成するだろうとも思いました。ただ、そうなるために努力ができるかどうか、というところでした」(吉田氏、以下同)
吉田氏が監督に就任した3年時。当時の彼の練習態度には思うところがあったという。
「私は、練習で力を抜いたり、気持ちを入れない選手はいっさい使わない。それまでレギュラーだった選手だろうが関係ないという基準を就任直後に示しました。どれだけ才能があっても、練習を適当にやっているような選手は仲間から信頼されない。田村にはそういうところがすごくあったので」
それまで田村はその才能ゆえに自己中心的なプレーが多く見られた。吉田氏は「田村には、日本代表のスタンドオフになってほしいと思っていた」と話す。
「このままの状態で田村を扱っていたら将来、彼が苦労してしまう。代表の人間たちもそんな選手は使わない。ラグビーは人に評価されてこそのスポーツ。それを教えるのは今しかないと思った。そのため、練習試合にあたるオープン戦で起用しませんでした」
その後、田村は変わり、練習にも真剣に打ち込むように。
「W杯直前の網走合宿に行ったら、主将のリーチマイケルが田村のことを絶賛していたのを聞いてすごくうれしかったね。周りから本当に信頼される人間に成長したなって」