絶望の淵へ陥れた思春期の“いじめ”
土屋死刑囚は幼いころに児童養護施設に預けられて以降、施設から通園・通学をしていた。小学校に進学したころ、彼の人生を狂わす出来事が起こる。同じ施設の生徒からの“いじめ"だ。
「はじめは物を隠されることから始まり、後に暴力をふるわれるまでになった」と本人は証言している。
また、量刑の参考となる情状鑑定書には、いじめのストレス発散方法として《我慢を続け限界になった際に窓ガラスを割る、(中略)物に当たったり、(中略)施設から抜け出したりなどの行動化で対処していた》とある。
だが、そうした表現は周囲から酌んでもらうことはなかった。“理解してもらえない”という絶望感から、悲しみや恨みの思いが本人の心に芽生えてしまう。このころから人との関わりを避け、孤立することを好んで生活するようになる。
さらに佐藤さんによると、
「児相の頃がいちばん(土屋死刑囚に対するいじめが)ひどかったんじゃないかな。児相でいじめられて、学校でもいじめられて。家帰って安心するなんて場所がカズヤにはなかった。それも24時間、365日。
いじめのことを先生に言ったら告げ口したからと余計いじめられて。先生にも言えなくなったから自分で抱えちゃって。それが中学卒業までずっと続くわけですよ。とにかく生きづらい。もう、おかしくならないわけがない」
中学に入学し、野球部に所属するも、部内でのいじめが原因で休部。児相を出たくて県外の福島の高校に入学し、祖父母と伯母との4人暮らしで新生活を始めるも、伯母から食事を抜かれるなどの嫌がらせを受ける。
土屋死刑囚は、こうした自らに降りかかってきた不運の原因を、ことごとく周囲の人間の責任にした。だが、いじめの原因を掘り下げていくと、土屋死刑囚が発端のトラブルも少なからずあり、本人にも非はあるようだった。本人の主張と、周囲の反応とのズレがみられるのだ。
ただ、多感期に起きたいじめの被害は彼にとって相当なストレスであったことは間違いなかった。ひと息つく隙間も与えられないほどの極度のストレス下で、24時間、365日、自らを受け入れてもらえないという出来事は、彼を底知れぬ悲しみに陥れた。彼を照らす光が、絶望の名とともに遮断され、容赦ない虚無感が心を覆った。
高校を卒業したころから、現実と向き合うことができなくなり、携帯電話の課金ゲームにはまってしまう。これがお金ほしさの強盗殺人への引き金となる。ゲームの世界は、自分の強さを発揮できた。ゲームを通じて出会うネット上のつながりの人からは、自分の力を認めてもらえた。この優越感を求めに求め、彼は生活費を削ってでも、借金をしてでもゲームをやり続けた。辞められなかったというほうが正しいだろう。
それほど、彼は人に自分を受け入れてほしかった。存在意義をかみしめていたかった。
いよいよ水道・電気・携帯電話も止められ、食べる物も底をつくという事態に直面した。水と砂糖だけでしのいでいた土屋死刑囚は空腹に耐えきれなくなり、とっさに思いついたことは「泥棒をするしかない」だったという。泥棒をするだけだったはずが、結果、無惨な殺人事件を犯してしまったのだ。