「矢部君、漫画描いてみなよ」
矢部の誕生日には、大家さんがサプライズでお祝いしてくれたり、大家さんがこよなく愛する新宿伊勢丹でランチをごちそうになったこともある。
「大家さんは上品で聡明なのに、少女らしくてチャーミングなところもあるんです。また、旬の果物をくださったり、庭の梅や紫陽花を一緒に眺めたり。僕がそれまで知らなかった季節を楽しむ喜びも教えてくれました」
付き合いが深まれば深まるほど、大家さんが持つ魅力に引き込まれていった矢部。
ある日、ホテルのティールームで大家さんとお茶していたときに、知り合いの漫画原作家・倉科遼氏にたまたま遭遇した。
「倉科先生に“アパートの大家さんとお茶しているんです”と言ったら、“素敵な関係だね”と興味を持ってくださって。“舞台か映像の作品にしたいから、詳しく聞かせて”と言われ、大家さんとのエピソードを4コマ漫画のような絵コンテにしたんですよ。そうしたら、倉科先生が“矢部君、漫画描いてみなよ”って」
その後、吉本興業のスタッフが新潮社に話を持ち込み、とんとん拍子に連載の話が決まった。前出の担当編集者・武政さんが語る。
「矢部さんが描いたネーム(漫画の構成を示したラフのようなもの)を読んだらとても面白くて“ぜひやりたい、もっと続きを読みたい”と思いました。ただ、初対面のときの矢部さんは、目を合わせずに、ずっと下ばかり見ていて会話も弾まず……。これからちゃんとやっていけるかなと不安になりました」
しかし、矢部は漫画のことになると、自分の希望や意見をはっきり示したという。きっと矢部の中に、この漫画で描きたいこと─「大家さんのチャーミングな魅力をキャラクターに凝縮する」という幹がしっかり定まっていたからだろう。執筆は順調に進み、「ふだん漫画を読まない層にも受け入れられるのでは」という編集サイドの判断で、文芸誌『小説新潮』での連載がスタートした。
作中には、「大家さんの財産を狙っているんじゃないのか」などと矢部を揶揄するガサツな芸能人の先輩が登場する。このキャラクターのモデルのひとりが、矢部と10年来の付き合いだという俳優の木下ほうかさん(55)だ。木下さんは、漫画を描き始めたころの矢部についてこう語る。
「僕らは近所に住んでいて、しょっちゅう会っていたので、ネームができあがるたびに持ってきてくれました。きっと彼はまだ自信がなくて、第三者の感想を聞きたかったのでしょう。僕が“面白いね”と褒めると、安心したような表情を浮かべていました」
1年超におよぶ連載をまとめた単行本が出版されたのは、'17年の秋。初版は6000部。15年前からの付き合いだという舞台作家の冨田雄大さん(41)は、次のように語る。
「発売を翌日に控えた日、たまたま矢部さんと会っていて、初版部数を聞きました。“6000人が買ってくれるってけっこう大変なことですよね”と僕が言ったら、矢部さんも“冷静に考えたら大ごとだな”と考え込んで……。重い空気になってしまいました(笑)」
蓋を開けてみれば、発売初日から大反響。売り切れが続出する書店が相次いだ。これだけ売れるなら、すぐに第2巻を、となりそうなものだが、矢部は首を縦に振らなかった。
「まさか続編が出せると思っていなかったから、1冊でできるだけいいものにしたいと思って、大家さんとの日々のエッセンスを結集したつもりでした。僕なりに大家さんの魅力をキャラクターとして伝えられたという気持ちもあったし、そのころ大家さんが体調を崩して施設に入られていたこともあって……」