またそのときに問題の一番として上がった、白鵬―遠藤戦では、荒磯親方(元横綱・稀勢の里)がNHKの大相撲中継で、
「かち上げた瞬間に、白鵬の右の脇にスキができますから、遠藤はそこをうまく突いていくことをしっかり頭にあれば、ここまでまともに食らうことはないんです。僕は左のおっつけがあったので、逆にやってくれたらうれしいんですが、横綱はそれが分かっていたので僕にはかち上げを仕掛けてきませんでした」
とコメントしていたのだが、いつの間にかその意見は消されてしまい、横審の個人的な感想や、また白鵬―遠藤戦でのNHK大相撲中継のもうひとりの解説だった舞の海さんが言った、「こういうことをする横綱は過去にみたことがありません」といった言葉のほうを土台にして伝える記事をいくつか見た。ちなみにそういうことをしている過去の名横綱たちの写真が、翌日のツイッターには多数上がっていたことを言っておこう。
そうした報道に際し、どこも両論併記の体を見せるのだが、根拠があやふやで個人的感想のほうをタイトルにしたり、その感想を基準にして論を張っていくことが多く、結果として白鵬に問題があるといった方向に流れ、やれやれ呆れる的な結論に導いてしまっているのを問題に感じた。
小錦の外国人横綱不要騒動も
大相撲はとかく話題にあがりやすく、そんなふうにバッシングしやすいのは今に始まったことではない。1961年の相撲雑誌の読者投稿欄を読んでいたら、大鵬ファンの女性が「あなたの不調のとき、口をそろえて手きびしい批判をしたマスコミの圧力」と書いていて、なるほど当時も人気力士は叩かれやすかったのかと驚いた。いま、大鵬は横綱の鏡、神さまのように崇めているが、当時はそんなものだったのだ。
さらに1992年、小錦の横綱昇進が話題になったときには横審のひとりが『文藝春秋』に「外国人横綱は要らない」などという記事を出して、次第にそれが一般論としてメディアが広めたことを、当時の出羽海理事長が憂えていたことを相撲雑誌の記事でやはり読んだ。
出羽海理事長は「外人が横綱になったらどうするんだとか、協会は言ってないんです。協会にかこつけて、マスコミが嫌いなことを表現しているわけです。私たちは逆に小錦や曙に見習わないといけないんです。小錦が幕内に上がってきたときに、みんなアワ食いましたよね。黒船が来てドカーンと眠りから覚めたようでした。みんな慌てて稽古しだして、相撲の地力がワーッとアップしたんです」と話していた。
こんな話は当時、ぜんぜん伝わってこなくて、新聞やテレビでは小錦バッシングにあふれていたのを覚えている。
そうした伝え方からあまり変わってないのかもしれないが、今はSNS社会で当時とは全く状況が違う。白鵬にしろ、今回の石浦にしろ、さらには相撲協会そのものがとにかくバッシングしたい人たちの標的のようになってしまう。
もちろん賛否両論、意見があるのは自由だが、ひたすら罵り、人格否定や、差別的な文言まであるのは問題だ。言っている人たちは自分たちの日ごろの憤懣(ふんまん)のはけ口にしているようにしか見えず、これは大相撲に限ったことではないのかもしれないが、社会のひずみを感じぜずにおられない。伝える側はそうした社会的影響を少しでいいから念頭に置いてほしいと心から願う。
2020年は大相撲を楽しんで見たい。大相撲は楽しいスポーツ興行だ。眉根にシワを寄せて罵りながら見るものじゃない。見る側も伝える側も、それを胸に喜びを分かち合おう。
和田靜香(わだ・しずか)◎音楽/スー女コラムニスト。作詞家の湯川れい子のアシスタントを経てフリーの音楽ライターに。趣味の大相撲観戦やアルバイト迷走人生などに関するエッセイも多い。主な著書に『ワガママな病人vsつかえない医者』(文春文庫)、『おでんの汁にウツを沈めて〜44歳恐る恐るコンビニ店員デビュー』(幻冬舎文庫)、『東京ロック・バー物語』『スー女のみかた』(シンコーミュージック・エンタテインメント)がある。ちなみに四股名は「和田翔龍(わだしょうりゅう)」。尊敬する“相撲の親方”である、元関脇・若翔洋さんから一文字もらった。