マイナスに働いた松田聖子のデビュー

 実力派アーティストと同じステージに立てば、リハーサルの時点で萎縮させられた。

「実力がない劣等感がずっとありました。名前を知ってもらおうと、学園祭にたくさん出たのですが、ヤジばかりで誰も聴いてくれないこともあり、悔しくてよく泣いてました」

1983年、神奈川県内の商店街で『ターニング・ポイント』のプロモーション
1983年、神奈川県内の商店街で『ターニング・ポイント』のプロモーション
【写真】オーバーオールを着た“イルカの妹”時代ほか

 4作目にあたる『卒業』の9万枚を筆頭に、3万枚以上の売り上げを目安にしていたレコード会社の基準は満たしていた。だが、レコードが売れてもベスト10に入るシングルヒットには結びつかない。ヒットがなければテレビの歌番組に出られず、知名度はいっこうにあがらない。

 1年後に松田聖子が登場したのもマイナスに働いた。デビューは先で本名であるにもかかわらず、どこにいっても「人気にあやかってまねをした」と笑われてしまうのだ。

「同時期にデビューした人たちが次々にヒットを飛ばし、メジャーになっていくなか、ひとり取り残された気持ちでした。いい曲を書けたと思っても、売れない。もっとプロモーションしてほしいと思っても、認めてもらえない。自信をなくしていきました」

 石川優子や久保田早紀ら、作詞作曲をするシンガー・ソングライターがこのころ歌番組をにぎわせていた。

 1983年、レコード会社を移籍したのも、ヒットを狙ってのことだった。ベスト盤『FOR YOU』のジャケット撮影ではスタイリストの手で派手に化粧が施された。「これは私じゃない」と思っても、相手はプロだから意見が言いにくい。イメージチェンジを図り、売ろうとすればするほど、素の自分とのギャップがますます広がった。

 レコード会社のプロモーターとして、このころの沢田に付き添った伊藤ひろみさん(61)は振り返る。

「本人の意思とは関係なく、かたちを変えればヒットが狙える、もっと大化けするとの思惑がレコード会社にも事務所にもあったのだと思います。芸能界には裏表のある人が少なくありませんが、聖子ちゃんは素直で、地方の小さな町で歌う仕事もいとわずやってくれていました」

 移籍後の第1作である『ターニング・ポイント』は、『悲しむ程まだ人生は知らない』という21歳の女性にはいささか重たすぎるタイトル曲で始まる。

「デビューしてから、たくさん悔しい思い、苦しい思いをしてきましたが、悲しむほどまだ人生は知らないよなと考えて作った曲です。私のありのままの気持ちでした」

「つくられたアイドル」という印象が残る沢田を音楽評論家は認めなかった。「彼氏とドライブして、沢田聖子の曲が流れたらその場で別れる」と酷評されたこともある。そういう世間の反応ひとつひとつに沢田は深く傷ついていた。