こうして独立し、自分の名前を冠したショウコ・ミュージック・カンパニー(SMC)を設立。沢田が社長になり、夫と沢田の父が取締役に就いた。初めて心から信頼できる相手と二人三脚、深呼吸しながら音楽活動ができる。希望に満ちあふれた沢田は再出発のアルバムに『LIFE』と名づけ、幸せな新婚生活を予感させる歌を綴った。
夫の“踏み台”にされたと気づく
「夫の転勤で、仙台を拠点に東京と行き来する生活でした。サラリーマンをしながら夫が私の窓口になってくれて。恋は盲目と言いますが、すべてうまくいくと思っていました」
だが、地道な活動を根気よく続けるものの、大きな話題にはならない。新譜を出してもCDショップの棚に並びさえしないことが増えていった。そして、いつしかライブやラジオ番組への出演に、マネージャーであるはずの夫が同行しなくなっていた。
「マネージャーをつけるほど、お前は売れていない」となじられたこともある。
夫がお金のすべてを管理し、移籍したレコード会社から受け取ったはずの契約金がいくらかも知らされなかった。渡された給料は20万円。そこから夫婦の生活費である家賃や食費を払い、税金も納めた。
「お前を売るにはほかで稼ぐ必要があると言われ、夫は新人アイドルの育成などに力を入れていました。どうしてだろう、なぜだろうという小さな疑いがひとつ、またひとつと芽生えていきました」
夫が中心となって結成したファンクラブにも不満が募った。イベントを催せば、「沢田聖子があなたのためだけに歌う権利」をオークション形式で売り値をつり上げるなど、ファンの心理をお金儲けに利用しているような企画がたまらなく嫌だった。
「知らぬ間に会社の登記簿が変えられ、社長が私ではなく、勤めをやめた夫になっていました。ベンツに乗っているかと思ったら、キャンピングカーも増え……。もともと音楽業界の仕事をしたかった夫の踏み台にされたのだと、さすがに気づかされました」
家に帰ってこないのは仕事が忙しいからだと思っていたら、携帯電話から女性関係の痕跡がいくつも出てきた。仕事と生活がごっちゃになり、喧嘩も絶えなくなる。
集中しなくてはならないライブの前日、部屋の電気を消して寝ようとしたら、「まだ話は終わってない!」と夫は布団を引きはがす。本番直前の楽屋でも怒鳴り続け、罵声に怖じ気づいた関係者はだれも近づけなかった。2000年を過ぎたあたりからのアルバム『祈り』『心は元気ですか』『すべてに、ありがとう』『Peaceful Memories』はいずれも、沢田の病んだ心を如実に反映したタイトルで、自分に言い聞かせるように曲を作り、前を向こうとしていた。
「売れていないのだからしかたがない。神部さんからも、夫からも頭ごなしに言われているうち、だんだん自分が猿回しの猿に思えてきました。本人の意思なんてどこにもなく、自分は何者でもないのだと思い知らされました。それは子役のときからずっと続いてきたことかもしれません」
沢田は離婚を決意したが、3年あまり泥沼は続いた。
2009年、21年にわたる夫婦関係を解消し、46歳で離婚。「個人事務所から独立し、ファンクラブを解散する」とライブで自ら公表した。
「夫は腹いせに、デビュー当時からの私の写真を焼却処分していました。イルカさんが、“聖子ちゃんにとって大切な思い出だから”と送ってくれたものです。本当に悔しかった……」