なのに結果的にアカデミーが選んだのは、最も「オスカー好み」から遠い韓国を舞台にした、馴染みのない韓国人俳優が出るダークでユーモラスな作品だった。どうしてこのような展開になったのか。考えられる理由は、ふたつある。

米アカデミーに訪れた大変化

 ひとつは、この4年ほどの間に起こったアカデミー賞の投票母体の変化だ。演技部門の候補者20人が2年連続で全員白人だったことから「#OscarsSoWhite」批判が起きたのを受け、米アカデミーはマイノリティや女性、若者を増やすべく、意図的にそれらの人々を新会員に招待してきた。

 会員のクオリティを落とさずにそれを行う上で注目したのが、海外の映画人。4年前には6000人前後だった会員数は現在1万人弱にまで増え、その中には過去に類を見ないほど外国人がいる。映画といえばハリウッドと信じてやまない従来の会員の中に、カンヌやヴェネツィアは常連だがアメリカの超大作はあまり見ないという人がかなり混じってきたわけだ。

 海外の映画人の多くは、『パラサイト』を北米公開よりずっと前の5月にカンヌ映画祭で見ており、また、ポン・ジュノの過去作も見ている。そんな彼らは、「アカデミー作品賞に韓国映画はふさわしくない」などという考え方をしない。そもそも、アカデミー作品賞は英語でなければいけないというのは、アメリカ人による単なる思い込みであり、ナルシシズムでもある。

 その主張はノミネーション発表以後、批評家や業界関係者の間でたびたび聞かれてきた。最も積極的に発言したのは、先にも出たロサンゼルス・タイムズのチャンだ。彼は本投票真っ最中だった先週末、「パラサイトがオスカーを必要とするよりもっと、オスカーがパラサイトを必要としている」という見出しの長いコラム記事を書いている。