さらに、被告人は、追い越しの際、軽自動車と接触したことに全く気づかなかったと法廷で述べていたが、自白調書では追い越ししようとしたときに衝突音が大きく、その擬態語が、警察のほうでは「ガガガという音がしました」と、検察のほうでは「ドンッという音がしました」と異なっていることにも違和感があった。
決定的だったのは、被告人が「慌ててハンドルを大きく左に切った」と自白しているにもかかわらず、その自白どおりのブレーキ痕が見つからなかったことだ。自白供述どおりに急ブレーキをかけながら大きく左にハンドルを切ったのであれば、左のスリップ痕が強く残り、逆に右側は浮くはずだ。
しかし実際には、そうはなっていなかったため、被告の供述が真実だとすれば、スリップ痕がこんな形になるはずはない、と私は考えたのだ。
正しい裁判とは?
トータル的に考えると、ひき逃げに関して自白を強要されたとしか思えず、その部分は無罪判決を出した。
これは極めて異例なことだ。業務上過失事件でひき逃げとなれば量刑は重くなるので、通常であれば「単なる言い逃れ」とされたところだろう。被告もあきらめてそのまま有罪になる確率が高かったと思う。
そもそも日本の検察官は起訴したら必ず有罪になる事件しか起訴しない。そのため裁判で無罪になることはほぼない。
しかし、私は、ひき逃げに関する自白調書そのものにおかしな点があることに気づいたのを、そのまま放置することはできなかったのだ。
一部無罪判決を出した後、検察は反省会を開き、結局、控訴することはなかった。
もしかしたら自白を強要され「でっち上げられた」事件で、記録そのものをよく読むことによって無罪にできるケースは、あるのではないだろうか。
裁判官にとって、個々の事件は自分が担当している数多くの事件の中のひとつだ。しかし当事者からしたら、ほとんどの場合、一生に一度のはず。その当事者にとっての事件の「重み」を裁判官は忘れてはいけないと思う。
高橋隆一(たかはし・りゅういち)
東京都生まれ浅草育ち。早稲田大学法学部卒業。1975年に裁判官任官後、31年間の長年にわたり民事・刑事・家事・少年という多種多様な事件を担当。2006年3月千葉家裁少年部部長裁判官を最後に退官。その後、2006年4月遺言や離婚契約の公正証書の作成などに携わる公証人になる。2016年8月退職。趣味は昆虫採集、登山、スキー、陶芸等。現在、弁護士(東京弁護士会所属)