美術界に広まる衝撃
“A4の紙をテープでつぎはぎして描くより、君だったら大きなロール紙を使っても描けるんじゃないか─?”
養護学校で美術を担当していた馬場功先生が、そんなアドバイスをしてくれたのだ。馬場先生が当時をこう回想する。
「最初は展覧会の出品用に50号とか100号とか規定の絵の大きさに切っては休み時間とかに描いてはったんですが、それがものすごいスピードで。1枚目の100センチに切った絵を半分ほど描き上げてきたときに、その内容と量がすごかったんで、“10メートルの紙にまるまる描いたらどうなるんやろな?”と。そう投げかけたのがきっかけでした」
“やってみる─!”
憲満さんはそう答え、6年の歳月をかけることになる長さ10メートルの超大作『3つのパノラマパーク』に取り組み始める。
同時に157×121センチの紙を相手に、まだ完成前だった上海ディズニーランドを想像して描くことにも取り組み始めた。『未来の上海ディズニーランド』である。
絵の中央部にシンデレラ城がそびえ立つこの作品に感銘を受け、関西電力主催のアート展『かんでんコラボ・アート21(当時)』に出展を持ちかけた人がいた。高等部で憲満さんのクラス担任をしていた徳田佳弘先生だった。
徳田先生(61)が言う。
「(当時は)“頑張って描いたなあ”ぐらいで、真価はまだわかりませんでした。でも、まだ上海ディズニーランドができる前だったから、ネットで調べたりして、ここまで精密に描けるのは本当にすごいなあと思いましたね」
この作品が、なんと2010年度最優秀賞を受賞する。
「お父さんから電話で、“最優秀賞になりました!”と聞いたときには、エーッ!? と驚きましたね。線のタッチをよく見てもらうとのり君の絵のすごさがわかります。白い部分が残っているので後期の作品と比べるとまだまだ緻密じゃないけれど、それでもすごい。受賞されたと聞いてびっくりしました」
徳田先生をこう感嘆させた緻密さへの衝撃が、さざ波のように美術界に広がっていく。
翌2011年には『ポラコート全国公募展2011』で『発展する未来の中国No.2』が服部正賞を受賞。2012年には『第21回全日本アートサロン絵画大賞展』で自由表現部門優秀賞を受賞した。さらには同年、オランダのドルハウス美術館のヨーロッパ巡回展『Art Brut from Japan』への出展を果たしている。
憲満さんがこうした評価へ率直な感想を吐露する。
「“自分でもできるんやな”と思った。自分の絵はすごいと思った」
だが、そんな順調そのものの高校2年、2012年の3月、思わぬことが起こった。
就職を見越し、自宅から自転車で20分ほどのところにある作業所に実習に通っていたときのことだ。満さんが言う。
「憲満が“自転車で止まっている車の横を通ったとき、自転車が当たってしまったような気がする”と。謝りに行くと、車の持ち主は“気にせんといて”と言ってくれた。学校の先生に報告しに行ったら“強迫性神経障害が出ないといいけれど……”と」
先生の予感が的中する。
以来、自転車に乗れなくなったばかりか、近所の線路の上にある石ころが気になってたまらなくなった。“線路の上に石がのっていないだろうか?”“自分が石をのけないと大事故が起きてしまうのではないか?”そんな強迫観念にとりつかれてしまったのだ。
この症状が表れていた時期の絵は、色が暗く濃く、陰鬱な印象だ。アール・ブリュットとは心が命ずるままに描く芸術。そのときの精神状態が、てきめんに表れてしまうのだ。