そういう中で、高度なアンサンブルを目指す主演・演出担当の英哲さんとメンバーとは対立するようになり、やがて訣別を迎える。
「集団名も僕がつけたんですが(註『鼓童』)、理解者はおらず、うつ状態で何もできなくなった。空海さんに憧れる気持ちがあったので、太鼓をやめて坊主になろうと思い、高野山に修行に行くつもりでした。坊主なら絵も描けるかもしれない、と」
ところが、花柳師匠の雷が落ちた。
「何を考えていますか! 人にない才能をこれだけ持っていて、修行なら今までさんざんやってきたでしょう。30歳になってこれから勝負しないでどうしますか!」
ものすごい剣幕だった。
「太鼓の分野で、あなたほどの経験をした人はいない。なんて身勝手な!」とまで言われた。つらかったが、11年の収容生活から社会へ一歩踏み出すことができたのは、この強い言葉のおかげだった。
アメリカでの「英哲プロジェクト」
2002年、北米ツアー中、オハイオ州での「中西部芸術会議」に招かれ、ソロ演奏と基調講演を行った。
「私が太鼓を始めた当時は、一般の人たちがやるなんて考えられなかった。だが今では太鼓グループが増え、若い人が一所懸命にやっている。そして非行に走ったり、問題行動のある子が太鼓で立ち直る例が見られるようになった。今の日本では、太鼓は単なる芸能以上に社会的な意味を持ち始めています」
それを聞いたオハイオ州芸術協会の会長が感動して、
「アメリカの青少年問題はもっと深刻です。いきなり学校に銃を持ってきて人を殺したりする。日本の太鼓にそのような教育効果があるのなら、ぜひアメリカで太鼓プロジェクトをやってくれないか」と真剣な眼差しで言ってきたのだ。
そして'04年、オハイオ州芸術協会の招きで、「英哲オハイオ・プロジェクト」のボランティア活動が始まった。
最初はダブリンという町の中学校に1年間通った。ここは公立校で、生徒も先生もほぼ白人。日本文化のひとつとして太鼓を教え発表会は大興奮に包まれた。
'06年からは、クリーブランドの芸術学校へ移った。ここは99%アフリカ系黒人やヒスパニック系の生徒。貧困家庭の子どもが授業料免除で学ぶことのできる芸術学校で、クラシック、ジャズ、コーラス、演劇、美術、写真、ダンス、文学などを教えていた。
最初、担当者からこう念を押された。
「両親のそろっている生徒はまずいません。家でご飯が食べられない子、養護施設から通っている子もいます。宿題を出しても家でできません。親がエイズだったり、アルコール依存症だったりという家庭環境です。もう子どもがいる子もいます」
最初の授業で、子どもたちはまったく興味を示さなかった。素直なダブリンの子どもとは真逆だ。そこで中断し、全力演奏を本番並みにやって見せた。
「それで生徒にスイッチが入った。急に言うことを聞くようになってくれました」
そして発表会の演目には、
「単なるコンサートじゃなくて、太鼓の入る音楽劇はどうでしょう」と「浦島太郎」を提案。演劇科の先生が英語台本を探し、衣装は中古の着物を日本から持って行った。