暗黒の高校時代に見つけた夢
大沢さんは、3人きょうだいの2番目として鎌倉で生まれた。2歳年上のまじめな姉、2歳下の静かな弟に挟まれて自由奔放。隣に住んでいた年齢の近い3人のいとこや近所の幼い子どもたちと毎日のように自然の中で遊んだ。家の近くの材木座海岸で貝殻を拾ったり、空き地で穴を掘ったりしながらのびのびと育った。そのころから面倒見がよく、小さな子と遊ぶのが好きだった。
小学校4年生のとき、父の転勤でニューヨークへ引っ越しが決まる。父はテレビ朝日の特派員で仕事人間。中学校卒業まで、思春期の多感な5年間をアメリカで過ごした。
「突然、現地の学校に入ったのでしばらく大変でしたが、半年くらいで英語もわかるようになり、翌年には日本人学校に移りました。油画を習って絵が大好きになり、ひとりで地下鉄に乗ってメトロポリタン美術館に絵画を見に行ったり、毎年夏休みにはサマーキャンプに行って湖で泳いだり乗馬をしたり、陶芸したり。楽しかったですね」
それまで生き生きと過ごしていたが、帰国後、高校に入学して様子が一変した。同調圧力に包まれた日本の学校生活になじめなかった。
「暗黒の時代です。一貫校でしたから、高校から入った私は“外部”と呼ばれ浮いてしまう。休日に私服で会ってもみんな同じような服装だし、話すことは悪口ばかり。授業中、英語の先生に発音の違いを指摘したら、授業を聞かなくていいから発言するなと注意されました。そういうことが積み重なって、本当に嫌になっちゃって」
不適応の状態が続いた高校時代。部活にも入らず、月1回は学校を休んだ。
「父は相変わらず仕事ばかりでしたが、母は私を理解してくれ、ズル休みにも協力してくれました」
高校3年生の夏、身体に異変が起きた。紫斑病性腎炎が悪化してネフローゼ症候群になり即、入院。当時、ネフローゼは絶対安静だ。8月から12月まで約4か月間を病院で過ごすことに。
「もちろん身体は大変でしたが、これで正々堂々と学校を休めると思って少しホッとしました(笑)。きっと入院しなくても不登校になっていたんじゃないかと思います」
その病院での経験が、大沢さんの未来を決めた。入院した病室は6人部屋で、生活保護を受けている人、身寄りのない人もいた。
「いままでぬくぬくと育っていたと思いました。日本人学校は大企業に勤める家庭の子ばかり。世の中のことを何も知らなかった。そう思ったら恵まれた層に対する反発心も湧いてきて、困っている人をサポートする仕事をしたいと看護師さんに相談するようになったんです」
ネフローゼで入院中の大沢さんは、仲よくしてくれた若い看護師のひと言で将来の仕事を決めた。
「看護師は体力勝負だから、看護師よりソーシャルワーカーがいいんじゃない?」
ソーシャルワーカー(社会福祉士)は、障害や病気などで日常生活に困難のある人の相談を受け、困難の軽減や解決を支援する仕事だ。
「じゃあ、社会福祉士になろう! って。単純なんです、私」
そんな大沢さん自身の退院が近くなったある日、同室でとても仲よくなった30代の女性が心不全で突然亡くなった。身近な人の初めての死だった。
「死」とはどういうことなのか。大沢さんの中で大きな問いがひとつ生まれた。