患者のDVも他人事ではなく……
入院期間が長かったため、高校は出席日数が足りず、留年が決まった。
「あんな学校にもう1年、行く意味はない」と思った大沢さんは退学を決意。大検を取得し、翌年、上智大学の社会福祉学科へ進学した。
「大学は帰国子女も多く、高校と違って楽しかった。社会福祉を学びたい人たちって、みんな優しいし(笑)。授業とサークルでのボランティア活動漬けの毎日でした」
毎週土曜日は都内の特殊学級(現・特別支援学級)で食事介助をし、午後は身体を動かして公園で一緒に遊んだ。児童養護施設にも学習ボランティアとして通い、勉強をサポート。
子どもたちに関わることで、大沢さんも力をもらえた。
一方、病院で初めて体験した死別から、「死」について考え続けていた。精神科医エリザベス・キューブラー・ロスの『死ぬ瞬間』という分厚い本を読み込んだ。そこには、患者自身や家族が病気や死を受容していく過程が克明に記されていた。大学ではアルフォンス・デーケン教授の「死の哲学」を聴講し、キリスト教の洗礼も受けた。
しかし、卒業後は収入面を考え、いったん英語力を生かせる外資系の出版社に就職。実際の仕事はただ英語でやりとりをするだけの単調な仕事だったため、医療現場への思いはますます強まった。
そんなとき、実習でお世話になった東京共済病院の医療ソーシャルワーカーから「病院を移るから、私の後任としてこない?」と声がかかる。水を得た魚のように「行きます!」と即答。夏には出版社を辞めた。
当時、医療ソーシャルワーカーは東京共済病院に1人。新人であっても病院のあらゆる患者を1人で担当するという激務だ。それでも大沢さんは仕事の喜びを感じていた。
「さまざまな人の生活や人生にかかわり、学ばせていただきました。救急搬送されてきたホームレスの方の生活保護申請を手伝ったり、2階から落ちて骨折した女性が実はDVを受けていてシェルターを案内したり、子どもが家でご飯が食べられずネグレクトの状態になっていたので児童相談所につないだりしたこともありました」
20代、まだ人生経験も浅い。経験がないなりに、病気や人生の奥深さを学ぶことがやりがいにつながった。困ったときは前任者に相談し、院外の事例検討や勉強会にも積極的に参加した。
仕事では、特にDVや虐待のケースがとても気になったという。
実は大沢さん自身も、学生時代から同居していたパートナーから暴言を受けていた。彼は司法試験を目指して勉強していたが、失敗するたびにエスカレートした。
「患者さんのケースは冷静に見られるのに、自分のことはわからなかった。結婚すればおさまるかもしれないと思い26歳で結婚したけど、さらにエスカレートしていきました。引き出しをひっくり返しモノを投げるようになり、蹴られるようになりました。でも謝って、優しくしてくれるハネムーン期もある。典型的なDVでした」
東京大学卒業後も司法浪人をしていた夫は、大沢さんが家計を支えていたことでプライドを保てない苛立ちもあったのだろうか。結婚して3年、29歳のとき、大沢さんは夫の暴力で尾てい骨を骨折。
その後まもなく、夫に「別の女性に子どもができた」と告白された。そこまできてようやく離婚することを決断できたという。
「自分自身もそうだったから、DVや虐待を受けて身動きが取れなくなる人のことがよくわかります。相手にどんどんエネルギーを吸い取られてしまう。私自身もカウンセリングを受けていましたが、自分では行動を起こせなくなっていく。今となっては、当時は仕事で少しでも誰かの役に立てることで、自分は生きている価値があると確かめていたような気がします」