「あなたが社長をやりなさい」

 病院には急報を聞きつけた社員や取引先の方々が続々と集まってきていた。不安げな幹部たちに囲まれて、久美さんは混乱するばかりだったという。

「なんにも考えられなかったですね。最初に頭に浮かんだのは家庭のことで、“これからどうしよう?”ということばかり」

 前出・半谷さんが証言する。

「朝、亡くなって、9時とか早い時間に電話をもらっているんですけど、気づかなくって。夕方、3時とか4時にやっとつながって。泣き声だったかなあ……。“山ちゃんが死んじゃった”って言われましたが、言っている意味がわからなかった」

 半谷さんはその後、着の身着のままで病院へ向かった久美さんのために、羽織れるものを持って葬儀場まで駆けつけたという。

59歳という若さで急逝した重雄さんの葬儀には、多くの人が参列
59歳という若さで急逝した重雄さんの葬儀には、多くの人が参列
【写真】『世界の山ちゃん』山本重雄さんと久美さんの結婚式

 久美さんが会社のことに意識がいったのは、病院に駆けつけた取引先に会ってからのことだった。

「“あなたが社長をやりなさい”と言われて初めて“あっ! 会社どうしよう?”と」

 葬儀での久美さんを、西日本営業部部長の横井浩孝さん(51)が証言する。

「みんな(社員)と話すときは毅然としていましたが、1人になって棺の横に行くと泣き崩れていましたね。みんなの前では、涙は見せないようにしていました。見ていてウッとこみ上げるものがありました」

 このときの妻としての複雑な心境を、子どものバスケ部を通してママ友という河野京子さん(48)が証言する。

「そのころは部活が盛んだったので、“ご主人のために”というよりは、お子さん中心の生活だったと思います。あとになって、部活のぶん、ご主人と一緒にいる時間があまりとれていなかったから、何もしてあげられなくて申し訳なかったというようなことをおっしゃっていたのを覚えていますね」

 葬儀が終わり、家に帰ってからも混乱は続いた。

 取引先や経営コンサルタントが入れ替わり立ち替わり現れては、『世界の山ちゃん』オーナー夫人に、さまざまな話を持ちかける。後任社長の自薦推薦もあれば、信頼していたコンサルタントからM&Aで経営統合を図る、つまりは“久美さんでは経営は務まらない。ついては会社の身売りを”という話をもらい、口惜しい思いもしたという。

 もとより、経営は素人という自覚があった。そんななか、代表取締役就任を決めたのは、重雄さんの死去1週間後のことだったという。

 以前から続けていた店舗に掲示されるかわら版通信『てばさ記』の締め切りが近づいていた。悲しくてもそろそろ腰を上げなくては、締め切りに間に合わない。

重雄さんが亡くなった後に最初に出した『てばさ記』。お客さまへの感謝が綴られ、楽しげな作りになっている
重雄さんが亡くなった後に最初に出した『てばさ記』。お客さまへの感謝が綴られ、楽しげな作りになっている

「社員から、“こんなときですから今回はお休みしましょう”と言われたんです。私は“それはお客さまへの配慮? それとも私への配慮ですか?”と。私は“私への配慮ならばいらない。私は書きます”と答えました」

 湧き上がる涙を堪えるようにして、久美さんが『てばさ記』の執筆を開始する。

 完成した第190号は、“山ちゃん天国へ! ありがとう山ちゃん”と銘打たれ、お客さまや関係者すべてに感謝を伝えるとともに、重雄さんの魂と精神を受け継ぐことを伝えるもの、すなわち、久美さんが代表を引き継ぐことを宣言するものとなった。

「書いていて、主人への思いが半分以上だったとは思いますけど、会社への思いやお店への思いが、自分が思っていた以上にあったんだと感じて。今は私が(代表を)やるべきだと思ったんです」