新たな夢と、トレーナーの若すぎる死
この「串カツ田中 世田谷店」は全国に280店舗を展開させ、'16年には東証マザーズに上場した外食チェーン「串カツ田中」の第1号店だった。そして君江さんたちに対応した気さくな店長は、串カツ田中ホールディングスの代表取締役社長、貫啓二さんだったのだ。
貫さんも当時のことをよく覚えていた。
「娘さんもおられて、普通に和気あいあいとされていましたね。特に君ちゃん(君江さん)はお酒もガンガン飲まれるし、すごく元気で生き生きしているし、足が動かないというだけで、いたって普通に見えた。
僕も車椅子の人に触れることが初めてだったので、ある意味、普通であることが新鮮にも感じました。ちょっと構えていたことが何だったんだろう、と思えるくらい自然な家族の光景でしたね」
以来、君江さんと貫さんは「ヌッキー」「君ちゃん」と呼び合う友人となる。そしてこの出会いが、君江さんの活動の大きな契機となるのだ。
貫さんとの出会いのあとも「ジェイ・ワークアウト」でのトレーニングは続いていた。ジムは厚木から東京・豊洲に移り、淳さんはトレーニングだけでなく、利用者の夢を叶えようと月に1回、それぞれのメンバーと話し合う時間を作るようになっていた。
淳さんに「何をやりたい?」と聞かれた君江さんは、「障害のある人でも行きやすいカフェを作りたい」と言った。
何度も車椅子での入店を断られ、嫌な思いをした、彼女ならではの夢──。それを叶えるべく、淳さんと君江さんで「理想のカフェ」のオープンに向けたミーティングをするようになっていた。
しかし一方で、君江さんは「串カツ田中」との出会いから、「理想のカフェ」とは別の思いも強く抱くようになっていた。それは「串カツ田中」のようにやさしい店を増やしていくという構想だった。「ココロのバリアフリー」、そんなネーミングも君江さんの中に生まれていた。
「田中に通いだしてから“自分の理想のお店を1軒作るよりも、今あるやさしいお店をもっと広めたほうが、みんなが出かけやすい社会につながるんじゃないか”と思うようになって。自分のお店はやろうと思えばいつでもできるし、そこから今の活動にフォーカスしていったんです」
'10年11月のある日。君江さんは、いつものように淳さんのトレーニングを受け、次のミーティングの話をした。
「あとひとつ相談したいことがあるから、また今度、話をさせて」
君江さんは「ココロのバリアフリー」活動の構想を、淳さんに打ち明けるつもりでいたのだ。
この日の翌日、淳さんはハーフマラソンに出場すると言っていた。
「明日、頑張ってね」
「応援に来てくださいよ」
「朝早いからダメだよ」
それが最後の会話だった。
淳さんはマラソンの途中で倒れ、帰らぬ人となってしまったのだ。まだ29歳という早すぎる死だった。
創立者を失った「ジェイ・ワークアウト」だったが、淳さんがトレーニングに挑戦するきっかけになった親友が代表に就任。現在では東京・大阪・福岡にジムを展開し、淳さんの遺志を継ぎ、利用者に希望を与えている。
君江さんは、淳さんが生きていたら「ココロのバリアフリー」の活動を自分のことのように喜び、心から応援してくれると確信している。