7年間ひとりで書き続けた童話
東京の歌を作って歌ってくれたルイジンニョのお母さん。正しい発音を教えてくれたコーヒー屋さん。片言の日本語で対応してくれた日系人の八百屋さん。お札が汚いと売ってくれない意地悪なハム屋さん。風邪をひいたときにペニシリンの注射を打ってくれた薬局の青年。そして、ケンカしてもカーニバルで一緒に踊ってくれたルイジンニョ。
世界中の人がまざりあって、仲よく暮らしている。そんなブラジルで2年過ごしたことが、角野さんは、「私の大きな原点になった」と言う。
実は、滞在中にルイジンニョ一家は突然引っ越し、以来、つながりがなくなってしまったのが、角野さんの心残りだった。20年後、娘と一緒にブラジルへ再訪したときも探したが、見つからなかった。
しかし、最近になって、担当編集者がフェイスブックを通じて、ルイジンニョを発見。
「さっそくメッセージを送りました。当時可愛い少年でしたけど、60年たってますから、今は素敵なおじいちゃんになってましたよ。あんなやんちゃ坊主だったのが、大学教授になったらしくて、私が“お・ど・ろ・き”ってメールを送ったら、“自分でも、お・ど・ろ・き!!”って返事が返ってきたわ」
海を越え、60年を経て、懐かしく新たな交流が始まった。
角野さんは、ブラジルに2年間滞在した後、ヨーロッパやアメリカを旅して、帰国。旅行記を書くつもりもなく、普通の主婦として生活を送っていた。
31歳で長女を出産し、育児をしていたときに、早稲田大学の恩師から「ブラジルのことを書いてみないか?」と誘われたことが、大きな転機となる。
「最初はお断りしたんです。本を読むのは好きだけど、書くなんてできないと思ってたから」
そんなときに思い浮かんだのが、ルイジンニョ少年が踊るように歩いている姿だった。「彼のことなら」と、とにかく書き始めることにした。
「最初からうまく書けるわけがないですよね。毎日書いては直し、書いては直ししているうちに、書くことが面白くなっちゃって。6度ぐらい書き直したころには、私は一生書き続けたいと思うようになったんです」
35歳のときに1年あまりかかって書き上げた『ルイジンニョ少年 ブラジルをたずねて』を出版。これがデビュー作となった。
「それから原稿を依頼されたわけじゃないのに、ひとりで童話を書くようになったんです。人に見せて、とやかく言われるのはイヤだったから、誰にも見せず、毎日毎日、書き続けて。それで、自分がこれはいいなと思えたら、出版社に持っていこうと決めてたんだけど、7年もかかっちゃいましたね」
机に積み上がるほど原稿を書いて、やっと自分が納得できる作品がふたつできた。ひとつは出版社に持ち込み、もうひとつは子どもの雑誌に投稿し、どちらも本になった。それが42歳のとき。
その2年後《スパゲッティが食べたいよう》で始まった『小さなおばけ』シリーズが大人気となり、作家としての地位を確立することになる。