母の作品をあえて読まない娘

 しかし、思春期の娘と心が通じずに悩むこともあった。

あまり詮索するのはよくないと思いながら、親はどうしても知りたくなっちゃうのよね私は“どうして、どうして?”って、つい聞いちゃうから、かえって話してくれなくなって。その点で、私は利口な母親ではなかったと思うわ」

 娘のリオさんに、子どもの目から見た角野さんを語ってもらった。まずはリオデジャネイロからとったという名前について。

小さいころ、リオって名前はイヤでしょうがなかったです昭和40年代生まれの私たち世代はカタカナの名前は少なくて、目立っちゃうしせめて漢字にしてほしかった

 ただ、私は未熟児で生まれて、高度治療の設備がある大きな病院に運ばれたぐらい、危なかったらしいんですよそれで、名前のないまま死んだらかわいそうだと、漢字を考える暇もないままつけた名前なのかなぁと、納得するようにしてました

 働く母が、そんなに忙しくしていたイメージはなく、褒めポイントとしていちばんにあげたのは「料理上手」。

ミートソースやフレンチドレッシングも手作りして、家に来た友達にもよくふるまってくれました当時の家庭料理としては珍しい洋食のごちそうですから、みんな争うように食べて、ドレッシングは飲み干してたぐらいいま思うと、母は仕事をしながら、ちゃんと家事もしてたんですよね。子どものころは気がつかなかったけど

娘・リオさん手作りのコサージュなど、インスタグラムではファッションも紹介
娘・リオさん手作りのコサージュなど、インスタグラムではファッションも紹介
【写真】『魔女の宅急便』の原案になった、角野さんの長女(当時12歳)が描いたイラスト

 母娘で「バトルはしょっちゅう」。中学生のとき一緒にブラジルに行った際もぶつかった。

本を読むのが好きだったので、母が外の世界を興味津々で見てるときも、私は持っていった『ガリバー旅行記』から目を上げない母から“もっと興味を持って社会を見なさい”と、ずっとうるさく言われましたね興味のものさしが違うだけだと思うんですけど

 この旅行の様子を記したエッセイ本は母が文章を、絵を描くのが好きな娘のリオさんが挿絵を担当。今年10月、『わたしのもう一つの国 ブラジル、娘とふたり旅』として、新たにあとがきも加えられ、再出版された。

「母に“美人に描け”とか言われながら描きました(笑)。いま見ると、未熟な絵ですけど、あのときにしか描けない絵を本にしてもらえ、よかったなって思っています」

 リオさんのイラストが、『魔女の宅急便』を書くきっかけになったエピソードも、角野さんとはちがう視点で話してくれた。

私が魔女の絵を描いたのは、12、13歳のころ子ども心に気に入ってて、画板にはさんで大事にとってあったんですけど、ある日突然、消えてたんです10年後ぐらいに映画化されたとき、私の絵がきっかけになったということを初めて知りましたきっと母は勝手に持ち出して、保管してたんでしょう

 本や展覧会で、私の絵が公開されてますが、“私の版権はどこにいったの?”って感じ母には“これのおかげで、あなたの学費が出たのよ”とごまかされ続けています(笑)

 実はリオさん、その『魔女の宅急便』を読んでいない。

「ほとんど母の本は読んでないんです。母がバリバリ作家として仕事をし始めたころ、私は高校生で、もう児童書を読む年齢ではなかったというのもあるし、反抗期で“母が書いたものを読めるか”っていう気持ちもありました。

 母は『トムは真夜中の庭で』を書いたフィリパ・ピアスさんと“娘って本を読んでくれないのよね”って話し合ったみたいですから。娘は母親に対して、カラいですよね」

 リオさんは結婚し、パートナーの仕事の関係で長く外国で暮らした。そこで身近に日本語の本がない生活で、読むものがほしくなり、自分で本を書くようになる。人の言葉が話せる黒猫が活躍する『ブンダバー』シリーズを、くぼしまりお名義で発表。

母の影響で書き始めたわけじゃないと自分では思ってますけど、読者の中には“お母さんとそっくり”という人もいます言葉のつかいまわしが、似てるんですかね

 その後も、母の本はあえて読んでいないという。

読もうかなと一瞬、思ったこともあるんですけどひとりっこの私が将来、父も母もいなくなったときに、読んだことのない母の本が、たくさんあったら、寂しくないかなぁと思ってだから、『魔女の宅急便』はまっさらのままとってあります