母の作品をあえて読まない娘
しかし、思春期の娘と心が通じずに悩むこともあった。
「あまり詮索するのはよくないと思いながら、親はどうしても知りたくなっちゃうのよね。私は“どうして、どうして?”って、つい聞いちゃうから、かえって話してくれなくなって。その点で、私は利口な母親ではなかったと思うわ」
娘のリオさんに、子どもの目から見た角野さんを語ってもらった。まずはリオデジャネイロからとったという名前について。
「小さいころ、リオって名前はイヤでしょうがなかったです。昭和40年代生まれの私たち世代はカタカナの名前は少なくて、目立っちゃうし。せめて漢字にしてほしかった。
ただ、私は未熟児で生まれて、高度治療の設備がある大きな病院に運ばれたぐらい、危なかったらしいんですよ。それで、名前のないまま死んだらかわいそうだと、漢字を考える暇もないままつけた名前なのかなぁと、納得するようにしてました」
働く母が、そんなに忙しくしていたイメージはなく、褒めポイントとしていちばんにあげたのは「料理上手」。
「ミートソースやフレンチドレッシングも手作りして、家に来た友達にもよくふるまってくれました。当時の家庭料理としては珍しい洋食のごちそうですから、みんな争うように食べて、ドレッシングは飲み干してたぐらい。いま思うと、母は仕事をしながら、ちゃんと家事もしてたんですよね。子どものころは気がつかなかったけど」
母娘で「バトルはしょっちゅう」。中学生のとき一緒にブラジルに行った際もぶつかった。
「本を読むのが好きだったので、母が外の世界を興味津々で見てるときも、私は持っていった『ガリバー旅行記』から目を上げない。母から“もっと興味を持って社会を見なさい”と、ずっとうるさく言われましたね。興味のものさしが違うだけだと思うんですけど」
この旅行の様子を記したエッセイ本は母が文章を、絵を描くのが好きな娘のリオさんが挿絵を担当。今年10月、『わたしのもう一つの国 ブラジル、娘とふたり旅』として、新たにあとがきも加えられ、再出版された。
「母に“美人に描け”とか言われながら描きました(笑)。いま見ると、未熟な絵ですけど、あのときにしか描けない絵を本にしてもらえ、よかったなって思っています」
リオさんのイラストが、『魔女の宅急便』を書くきっかけになったエピソードも、角野さんとはちがう視点で話してくれた。
「私が魔女の絵を描いたのは、12、13歳のころ。子ども心に気に入ってて、画板にはさんで大事にとってあったんですけど、ある日突然、消えてたんです。10年後ぐらいに映画化されたとき、私の絵がきっかけになったということを初めて知りました。きっと母は勝手に持ち出して、保管してたんでしょう。
本や展覧会で、私の絵が公開されてますが、“私の版権はどこにいったの?”って感じ。母には“これのおかげで、あなたの学費が出たのよ”とごまかされ続けています(笑)」
実はリオさん、その『魔女の宅急便』を読んでいない。
「ほとんど母の本は読んでないんです。母がバリバリ作家として仕事をし始めたころ、私は高校生で、もう児童書を読む年齢ではなかったというのもあるし、反抗期で“母が書いたものを読めるか”っていう気持ちもありました。
母は『トムは真夜中の庭で』を書いたフィリパ・ピアスさんと“娘って本を読んでくれないのよね”って話し合ったみたいですから。娘は母親に対して、カラいですよね」
リオさんは結婚し、パートナーの仕事の関係で長く外国で暮らした。そこで身近に日本語の本がない生活で、読むものがほしくなり、自分で本を書くようになる。人の言葉が話せる黒猫が活躍する『ブンダバー』シリーズを、くぼしまりお名義で発表。
「母の影響で書き始めたわけじゃないと自分では思ってますけど、読者の中には“お母さんとそっくり”という人もいます。言葉のつかいまわしが、似てるんですかね」
その後も、母の本はあえて読んでいないという。
「読もうかなと一瞬、思ったこともあるんですけど。ひとりっこの私が将来、父も母もいなくなったときに、読んだことのない母の本が、たくさんあったら、寂しくないかなぁと思って。だから、『魔女の宅急便』はまっさらのままとってあります」