夢は母校の総合優勝を見届けること
'48年、1年生ながら第4区(平塚中継所から小田原中継所間)走者に抜擢。
「終戦直後で物がない。野球のスパイクからクギをとって地下足袋のゴムを縫いつけた自作の靴で走ったことも」
しかし、初舞台は順風満帆とはいかなかった。
「3年生の田中久男さんが3区(戸塚中継所から平塚中継所間)を走っていたんですが、いつまでたっても来ない」
夏苅さんは焦っていた。当時は通信設備もそろっていない。すると自転車で走ってきた仲間から田中選手が失速したことを告げられた。
脚の痙攣を起こしていた田中選手はなおも走り続け、区間12位、最下位だったが夏苅さんに襷を届けた。
沿道には家族や友達、親戚の姿。みんな夏苅さんの応援に駆けつけたのだ。応援を支えに他大学の選手をどんどん追い抜き、区間2位まで躍り出た。この年の明治大学は総合3位入賞を果たした。
翌年も再び4区を担当。3区を走るのは前年に悔し涙を飲んだ田中選手。区間1位で夏苅さんに襷をつないだ。
そして総合優勝を飾った。
「本当にうれしかったね。憧れの箱根に出場できて、いや、走れることが喜びだった」
しかし、夏苅さんは3年生のときに肺を患い選手としての箱根駅伝は2年生で終わった。卒業後は審判員を務めたり、後輩を応援したり。裏方として支えてきた。現在も現役選手たちと交流し、他大学でも注目選手の顔と名前はしっかりと覚えているという。
しかし同大は'49年以降、総合優勝から遠ざかっている。その優勝メンバーも夏苅さんが最後のひとりだ。
夏苅さんの夢は母校の総合優勝を見届けること。
「100回大会で大手町に行って明治が1番にゴールテープを切る瞬間が見たいね。それをあの世のチームメートに土産話として持ってく、それまでは長生きしないとね」