自助グループの心地よい距離感

 何をしたらいいのか、何をしたいのか。彼は苦しい思いを抱えながら暗中模索していた。そんな息子をみて、母親はひきこもりについて勉強を重ねていたようだと彼は言う。

「姉は短大を出て隣町で就職、ワンルームマンションで暮らしていたんです。結婚してその部屋が空いたので、そこに住めと親に言われて。親子で少し距離をとったほうがいいと母が考えたようです。ネットビジネスはうまくいかないのでやめましたが、やはり外で働くことはできない。そのとき依存したのが本ですね。女性向けの恋愛エッセイや心理学関係の本を、図書館やネットカフェで読みあさっていました。依存症関係の本からカウンセリングにつながり、とある自助グループを紹介されたんです」

 それが25歳を過ぎたころ。本しかすがるものがないのはよろしくないと自分でも感じていた時期だった。

 人と接するのは怖くもあったが、「とりあえず、行くだけ行ってみた」という。

 最初に参加したミーティングで、自己肯定感をもてないのは自分だけではない、さまざまな生きづらさがあると知った。それから徐々に上田さんはそのグループにのめり込んでいく。

「ひとり暮らしで昼夜逆転生活になり、ミーティング以外は何もしない生活が続きました。そういう話をミーティングで相談すると““朝、散歩するといいんじゃない?”と言われる。だけど誰かが“一緒に散歩しましょう”とは言わない。その距離感が僕にはちょうどよかったんですよね。実際、朝、散歩してみると1日が長い。当時はミーティングに出ることだけを目標として暮らしていました」

 そのころ、母から誕生日に手紙をもらった。彼は8月下旬の残暑厳しい日の昼に生まれたのだが、母はその日のことだけを綿密に書いていた。暑くて出産までに時間がかかり、大変だったけど生まれてとてもうれしかったこと。その手紙を読みながら、彼は「ただ涙が止めどなく、こんなに涙って出るものなのかと不思議に思いながら声を出して泣いた」という。もし育ててきたことを恩着せがましく書かれたら、彼の心は動かなかっただろう。

「それまで、母の思いどおりにしなければ愛されないという思いが強かったのかもしれない。でも、母は母なりに愛してくれていた。父は威張っていたけど、それは家族を思っていたから。ストレスで家族に八つ当たりしがちだったのかもしれない。そう思いました」

 彼の中で何かが少しずつ溶けていった。生活費や自助グループへ行く交通費などは親がかりだった。

 客観的に見ると、上田さんの親は少しずつ彼の意識を変えるよう努力してきたのではないかと思う。うまく距離をとりながら、息子をゆっくり見守ってきたのではないだろうか。