8年ぶりに他人と話すことができた

 そんなとき、年上の旧友から電話がかかってきた。

ドライブに誘われて。最初は断ったけど何度も誘ってくれるので意を決して行ってみたんです。8年ぶりに他人と接したんですが、ごく普通に話すことができた。それは大きな自信になりました。恐怖感はあったけど、なんとか先に進めるかもしれないと、かすかな希望がわいてきた。翌日も、その人とゲームをしに行ったんです。2日続けて人に会って他人に対する怖さが少しだけ薄れました」

 もっと別の場所に身を置いてみたいと思った田澤さんに、親が手を差しのべてくれた。保健所や職業訓練所などに連絡をとってくれたのだ。そして、地域の活動支援センターにつながった。

「そこに1日中いられる“居場所”があって通うようになりました。同じようにひきこもっている人にも出会って、フットサルチームを作ったり、お互いの家に行ってゲームをしたりひきこもっているときのことを話したり。たくさんのことを吸収しましたね」

 そのころ、病院でパニック障害の診断が下った。薬ももらったが副作用が強いため、常用はせずに「お守りがわりに持っていた」という。その後、その居場所のスタッフが経営している喫茶店でアルバイトをするようになった。

「人生にはいろんな可能性があると喫茶店のスタッフさんに言われたんですよね。定時制高校もすすめられました。20歳過ぎても高校に行けるんだと知って、中学時代の教科書を引っ張り出して勉強、高校に入学したのは25歳のときでした」

25歳、意欲に満ちあふれた高校生活

 10歳年下のクラスメートと一緒に学生生活を謳歌した。美術部に入って好きだった絵を描き、文化祭では委員長も務めたし、10歳年下の彼女もできた。とにかく何でもしてやろうという意欲に満ちあふれていたという。

「本能のままに動き始めた感じ(笑)。とはいえ、やはり人との距離の取り方がおかしいとわれながら思うこともありました。好きな子にいきなり告白してストーカー扱いされそうになったこともあったし、女の子のグループに急に話しかけてドン引きされたり」

 そうやって適切な距離を学んでいったのだろう。そういう経験をする機会を逸して大人になった田澤さんにとっては、ひとつひとつの行動が、「死ぬかこれをやるかの二者択一」だったという。

「外に出てから常にそうでした。あの人に話しかけてみるか死ぬか、高校へ通うか死ぬか、いつもそうやって死との二者択一で、行動するほうを選択してきた。ここでまたひきこもったらすべてが終わり。そう強く思っていましたね」

 彼にとって、ひきこもることは、それほど“地獄”だったのだ。あそこに戻りたくない。その一心だった。

だからいつでも緊張はしていました。そのころにはパニック障害との付き合い方もわかっていたので、気持ちが悪くなりそうになるとフリスクを口に放り込むんです。あるいはポケットに手を入れて自分で太ももをつねる。そうすると瞬間的に気が紛れるんです。一時期、太ももが内出血だらけになりましたが、同じ症状を抱える友人に言ったら、『フリスクと自分をつねるのは、パニック障害あるあるだよね』と盛り上がりました(笑)。自分だけじゃない、みんなそうやって頑張ってるんだというのも、ひとつの希望でしたね

 ただ、人前で食べるのだけは今も苦手だという。みんなでカラオケに行っても喫茶店に行っても、彼が「食べる」ことはほとんどない。「食べて気持ちが悪くなったら人に迷惑をかける」という不安が強いのだ。