’24年に新しい1万円札の顔になる日本の“資本主義の父”と言われる渋沢栄一の生涯を描いた吉沢亮主演の大河ドラマ『青天を衝け』(NHK)。2月14日からスタート。
3話目の平均視聴率は16・7%で、3週連続で視聴率が同時間帯トップに。滑り出しは好調だ。
ところが渋沢栄一と聞いて、どんな人物なのか説明できる人は意外と少ない。
「江戸末期に生まれ、明治、大正、昭和を生きた渋沢は91年の天寿をまっとう。日本初の銀行『第一国立銀行』(現・みずほ銀行)や東京商法会議所(現・東京商工会議所)など500以上の企業や団体を設立。
そのほかにも福祉事業、医療事業、教育事業、国際交流に尽力するなどひと言でいうとバイタリティーの塊のような人物です」
こう話してくれるのは、渋沢栄一に関する著作も多い歴史学者・安藤優一郎さん。
しかしその人生は、なかなかどうして波瀾万丈。そこで今回は、酸いも甘いも噛み分けた大河ドラマの主人公・渋沢栄一の波乱に満ちた生涯の謎に迫ってみよう。
遊郭で散財、新撰組の隊士と女性を取り合い
武蔵国血洗島村、現在の埼玉県深谷市にある渋沢家は、藍玉の製造販売と養蚕も手がける豊かな農民。その家の長男に生まれた栄一は、お金持ちの家に生まれ育った、言ってみればスーパーおぼっちゃま。
「7歳のときから論語や四書五経、日本外史といった教養を身につけ、農民の身分にもかかわらず剣術の神道無念流を学んだ。侍に負けず劣らず文武両道に長けた子ども。性格も闊達でとにかく負けず嫌いでした」(安藤さん、以下同)
本来なら父の後を継いで家業にいそしむところだが、栄一も時代の申し子。21歳のとき、江戸に出て当時流行りの北辰一刀流の千葉道場に入門。剣術修行の傍ら、勤王の志士と交友を結んでいる。このあたりは“幕末のヒーロー”坂本龍馬とダブって見える。
「そのころ、攘夷思想にかぶれた栄一は、従兄弟たちと横浜にできたばかりの外国人居留地焼き打ちを企てますが、別の従兄弟の尾高長七郎の説得で計画を中止するという事件を起こします。日ごろは冷静なのに、スイッチが入ると血の気が多く、向こう見ずなところも栄一らしいです」
しかも計画に失敗した栄一たちは、その後、江戸の遊郭(吉原)で散財するというおまけつき。
「家が裕福だったため、栄一は江戸遊学時代から焼き打ち計画が失敗して勘当された後も仕送りをしてもらっていたようです。このあたり、両親のこまやかな愛情を感じます」
不謹慎に見えるかもしれないが、この時代の遊郭には、明日をも知れぬ勤王の志士たちも通っていたエピソードがあると安藤さんはこう続ける。
「あの西郷隆盛や大久保利通、そして木戸孝允にもなじみの芸妓がいたのは有名な話です」
その後、京都に出た栄一は尊王攘夷のかたわら女性をめぐって新撰組の隊士ともめ、押い込みをかけられることもあったという。時代とはいえ、栄一もまた“艶福家”であったことは間違いなさそうだ。