母が聴きたかった本当の「音」
そうやって開いてしまった距離を、母なりに埋めようとしていたのかもしれない。ある日、学校から帰宅すると、うれしそうにぼくを出迎えた。
――なにかあったの?
切り出すと、母が髪の毛をかきあげて左耳を見せてくる。
そこには薄いベージュ色の小さな機械のようなものが装着されていた。耳にかけられた部分から透明なチューブが伸びており、その先が耳の穴に続いている。
――これ、なに……?
――補聴器だよ。
――補聴器って?
補聴器とは聴覚に障害のある人が装着する、音を聴き取りやすくするための器具だ。それにより、多少なりとも聴こえるようになるらしい。補聴器を見せた後、うれしそうに母は、
――なにか喋ってみて。
とぼくに伝える。上機嫌な母に気圧されてしまう。早く早く、と急かされるまま、ぼくは呟いた。
「……お母さん」
どうやら聴こえたみたいで、母はまるで小さな子どものようにはしゃいでいる。音が聴こえるようになったことがよほどうれしいのだろう。もう一回、と何度もせがんでくる。母のリクエストに応えるよう、「お母さん」という単語を繰り返した。
この補聴器があれば、いままでもよりもスムーズにコミュニケーションが図れるようになるのかもしれない。多少なりとも聴こえるようになるのであれば、「ふつう」の親子に近づけるかもしれない。
しかし、そんな希望の芽はあっという間に潰えてしまう。