母の教えを息子たちへ繋ぐ

 3・11。あの日、生島が生まれ育った漁師町は丸ごと姿を消した。生島家の女性が守っていた生家の食堂は、土台を残して跡形もなくなった。

 4人きょうだいの長男である生島は、1950年12月24日、かの地で生を受けた。父は地元企業に勤めるサラリーマン。母と祖母は年中無休の食堂を営んでいた。

 祖母からは「跡取りなんだから」という意識を徹底的に叩き込まれた。地元の高校を卒業したら公務員になって、地元で安定的な暮らしを送るという漠然とした人生プランを、生島自身も思い描いていたという。

 高校2年のとき、いちばん下の弟、生島淳さん(現在はスポーツライター)が生まれ、経済的に大学進学は半ばあきらめていた。背中を押したのは、父のひと言だったという。

夢を追って自分の可能性を追求しろ。日本はこれから、どんどん国際化していく。自由に生きろ。長男だからと跡を継ぐ必要はない。海外で暮らしてもいいんだと。自由に育ててくれた親には感謝です

 小さいころは、どちらかというと引っ込み思案だった。弟の隆さんが、小学生の兄の姿を記憶している。

僕が小学校1年のときに、全校集会があった。生徒は3000人くらい。兄貴が保健委員として台に立って話をしたんだけど、もじもじして、真っ赤になって、下を向いていましたね。当時は赤面症でした

 生島は、大学進学で環境を変えることによって赤面症を克服することを試みた。さらにアメリカで、毎日恥をかきながら暮らす中、羞恥心は自然に消滅し、顔が赤くなることもなくなったという。

向こうではヘタな英語でDJをやったりしました。生きるためにしゃべるというか。環境で人はつくづく変われるんだなと思いましたね

 息子の勇輝さんは、赤面する父の若いころを知らない。人づてに聞くだけだが、父の前向きな姿勢に魅かれることは多い。

大家族の長男だったので、大黒柱的な考えは持っていると思いますが、基本はカリフォルニアのノリというか。おばあちゃんの口癖『大丈夫、大丈夫』が染みついている。心配するより前に進むという感じの人ですね

最近、息子の勇輝さん(左)、翔さん(右)には、「自分の人生、好きにやりなさい」と伝えているという
最近、息子の勇輝さん(左)、翔さん(右)には、「自分の人生、好きにやりなさい」と伝えているという

 3・11から10年がたち、気仙沼も生まれ変わった。土地はかさ上げされ、新しい住宅や商店が生まれ、震災時の子どもが大人になり町を支え、震災後に生まれた世代がさらに未来を担う。

 そこで生まれ育った18年間、生島に注ぎ込まれた生島家の教え─「うそはつくな」「義理人情は大切にしろ」「大丈夫、大丈夫」─は、その後の生島を突き動かし、支え、子どもらにも伝えられている。