チェッカーズ解散後に2人を引き合わせたのは2004年、元メンバーの“クロベエ”こと徳永善也さんの告別式だった。その後に高杢と鶴久を除く、元メンバー4人のみが発起人となって「徳永善也さんを送る会」を開いたのだが、この時のフミヤの発言が2人の仲を修復不可能なものにしてしまった。

「送る会」翌日の2004年9月13日、『週刊女性』は高杢と鶴久の独占インタビューを行なった。その中で告別式の際に、高杢とフミヤとの間でこんなやりとりがあったことを明かしていたのだ。

インタビューに答えた高杢禎彦と鶴久政治(2004年9月)
インタビューに答えた高杢禎彦と鶴久政治(2004年9月)
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《フミヤから声をかけてくれたんだよ。“元気か?”って。そりゃうれしかったよ。解散以来12年ぶりに再会したんだから。まあ、オレらもいろいろあったけど、やっぱりわかってくれてるんだな。そう思ってたんだけどね》

 この頃には「チェッカーズ再結成もあり」という考えもあった高杢。しかし、その後の「送る会」で彼の著書『チェッカーズ』について問われたフミヤは、「モク(高杢)の本はデタラメって聞いてるから読んでません」とまで言い切ったのだ。

 2002年に40歳で胃がんを告知されて、死を覚悟して病と闘った高杢。それだけに“遺書”として綴った著書を“デタラメ”呼ばわれされたこと、何よりも徳永さんのお別れの会という席上で言い放ったことが我慢ならなかった。

 当時のインタビューでは《他人からいわれたことなら、なんとも思わないよ。フミヤだから、ガキのことから一緒にやってきたアイツだから許せないんだ》と、かつての幼馴染みへの憤りと、悔しさをにじませた高杢。「チェッカーズ再結成」は、フミヤ自身の手で葬られたのかもしれない。

「チェッカーズ」を歌いたい理由

 そんなフミヤが今年になって、たったひとりで『ギザギザ〜』を歌うことを半ば強引に押し進めたというわけだ。当然ながら、また歌われることを待ち望んだファンも大勢いるであろうし、「抵抗があった」と話していた“ビジネス”になるのは間違いない。

「近年のフミヤといえば、最後にCDシングルをリリースしたのが2013年で、それでもオリコンランキング10位止まり。その後に配信限定シングルを3曲出していますが、やはり大ヒットとは言い難く、毎年のように開催しているコンサートツアーもマンネリ感は否めなくなっています。

 そこにYouTubeなどで若い世代の間で広がっている昨今の“昭和歌謡”ブームが来た。チェッカーズの関連動画も再生回数が伸びていることから、フミヤもこの流れに乗ろうとしたのではないでしょうか」(音楽情報サイト編集者)

 彼にとって“チェッカーズ”は再浮上のための切り札であり、突如として35年ぶりに恩師に“詫び”を入れたのも曲を歌うためだったのだろうか。NHKの番組ではデビュー曲の他にも、芹澤氏が手掛けたチェッカーズの曲も披露したフミヤ。今後は、自身のコンサートでも積極的に歌っていくのかもしれない。

 これに老舗レコード会社関係者は「違和感を覚えますね」と首を傾げる。

「そもそも、芹澤さんはフミヤのためではなく、チェッカーズのために曲を作っていたはず。かつてデビュー間もないチェッカーズに今後も楽曲を提供する上で、芹澤さんがメンバーに注文したことがあったと言います。

 それは小柄なフミヤをメインボーカルに置くとバンド全体の見栄えが弱くなることから、高杢と鶴久と3人でマイクを並ばせるというもので、これで初めて“チェッカーズになるんだ”という話でした。つまりはフミヤひとりで歌う曲は、それはチェッカーズとは呼べないのではないでしょうか」