CoCo壱番屋興隆の原点
妻に出て行かれても、養父の競輪狂いと暴力は変わらなかった。ロウソクが照らす4畳半には質草にする家財道具すらもなく、リンゴ箱がテーブル代わりの生活だった。
やがて“シケモク拾い”が宗次さんの日課となった。
3キロほど離れたパチンコ屋さんに行き、床に捨てられたタバコの吸い殻を大人の足をかき分けて拾い、持って帰ってリンゴ箱の上に並べておく。養父がそれをほぐして、キセルに詰めて吸うのである。
「日が長い季節には、ついつい遊びに夢中になって(シケモク拾いを)忘れてしまったりする。そうすると叱られましたねえ。
素っ裸にされホウキの竹の柄で、ビシビシとミミズ腫れができるぐらい」
それでも養父を憎んだことはなかったという。
「父が唯一の家族だったことと、気が小さかったからか……。そうとしか思えない」
普段は不機嫌この上ない人が、息子が拾ってきたシケモクを吸うときばかりは満面の笑みを見せた。
そのうれしそうな表情、自分が提供したもので人に満ち足りてもらう喜び──。
「“この父親が喜ぶことを一生懸命にやろう! ”と。喜ばれたいという気持ちが強かったですね」
この人を喜ばせたいという思いがのちに開花し、CoCo壱番屋興隆の原点となっていく。
母の屋台を手伝う小学生
1957年、宗次さん8歳のとき、うれしい事実が判明した。2年ほど前に出奔した養母が名古屋で元気に暮らしていることがわかったのだ。
養父はこれ幸いと復縁。父子で岡山から養母が住んでいた名古屋の4畳半一間のアパートに転がり込んだ。
だが、ここでも養父のギャンブル依存は収まらない。養母は再び家を出て、サラリーマン相手の屋台を始めた。宗次さんは屋台の手伝いを決意する。
「土曜日の昼に小学校が終わると、バス代20円だか30円をもらって母親の元に行って、夕方一緒に屋台をひいて。母親とのふれあいがうれしくて、毎週(通って)ね……。深夜2時ごろ、屋台を片づけ、日曜日の昼にはカレーや善哉を食べさせてくれました。小学5年くらいまでかな、毎週手伝いを続けましたね」
中学時代も養父の競輪狂いが止まらずに家賃を滞納。そのたびにアパートを追い出されてしまい、名古屋市内を転々とした。
アルバイトを始めたのもこのころのことである。中学1年生の冬休みには米屋に泊まり込み、朝の6時から正月用の餅つきをして働いていたという。
高校は夜間高校を志望していたが、先生に言われるまま受けた愛知県立小牧高等学校商業科に合格。本人の意思に反して、全日制高校に通う身となった。
だが高校入学の手続きの段階で、衝撃の事実を知る。
学校に提出するために戸籍謄本を取り寄せたところ、それまで実の両親だと思い続けていたが、『養父・養母』との記載があった。そればかりか、誕生日が違い、それまで基陽と呼ばれていた名前までもが本名ではないことがわかったのだ。
「戸籍謄本を見て3つの発見をした人生でした。それも15歳でね」
それでも、養子であることが虐待の原因と思ったり、養父を恨んだりはしなかった。
「なにも思わなかった。ホントになんにも思わなかったですね。(名前や誕生日も)“あ、違っていたんだ”ぐらい」
宗次さん高校入学の直前に、養父の胃がんが発覚。わずか2か月後、57歳の若さで逝去する。死の直前まで病室のまくら元に競輪選手名鑑を持ち込んでは宗次さんに読み上げさせ、それを幸せそのものの表情で聴き入っていた。
ギャンブル依存からついぞ抜け出すことができなかったこの養父に、どれほど苦労させられたことか。
だが裸一貫から事業を立ち上げて株式を店頭公開するまでに至るその根本には、養父との生活で身につけた“つらさを克服すること”と“喜ばれることを一生懸命にやる”という精神が、間違いなく存在するのだ。