「ここのカレーが1番や! 」

 東京で真っ先に足を運んだのが、神田のガード下にあったカレーと牛丼の店舗S。

ドアを開けた瞬間に目に飛び込んできたのは、おじさんたちがカウンターで丼を抱えている姿。“ああ、牛丼ってそういうものなんだ”と。しっくりこなくて、牛丼という選択肢が消えたんです

 その後も名門ホテルの3000円のカレーやら、10軒ほど食べ歩いたが、どんな有名店のカレーより、妻が作るカレーのほうが美味しかった。

それで帰りの新幹線の中で、“カレーなら、ここ(うちの)が1番や、カレーハウスCoCo壱番屋”と、屋号がすんなり決まりました

 1978年1月、宗次さん29歳の年、バッカスから車で10分ほどの愛知県清須市(現在)西枇杷島町の田んぼに囲まれた一角に、カウンター20席のみのカレー専門店CoCo壱番屋(以下、ココイチ)第1号店をオープンさせた。

 ところが“ここのカレーが1番! ”という自信のもとオープンしたはずのこの1号店、3日目からは閑古鳥が鳴き出した。

 忙しさにかまけて、ぬるいままのカレールーを提供したり、ライス不足で時間がない昼休みのお客さまを待たせてしまったり。味とスピードが勝負のカレー専門店にあるまじき失態の数々が原因だった。

 宗次さんは原点である“喜んでもらうのが第一”に立ち返ることを決意する。

 サーモスタット付きのフライヤーや自動食器洗い機を銀行ローンで導入、接客に集中できる体制を整えた。

 夫婦で“サクラ”をやったのもこのころの話だ。

私は毎晩、妻は週に2~3回。店の前に車を着けて、店の入り口に2人で、次のお客さまが来店するまでずっと座って。そのまま閉店間近までいたこともありましたね

 だが、希望をなくしたことは1度もなかった。

帰りの車中での会話は決まって“いずれ絶対によくなる”。いつ食べても美味しいし、店長も私の言うこと聞いて一生懸命サービスをしてくれていて。“このままやり続ければ大丈夫! ”。そんな自信だけは、なぜかありましたね

 自信を裏付けるかのように、気がつくとガラガラだった店内が6~7割方埋まるようになっていった。当時の目標は、月25日営業で月商150万円を達成したら2号店。

 10か月後にはその目標を楽々クリア。翌年には2、3号店。さらに年末には自宅(2・3階)と店舗兼セントラルキッチン、そして本部を兼ねた4号店を出店した。

「4号店出店の前段階で喫茶店を売却、ココイチを10店舗出す目標を決めた」

 あれから40年以上を経た今、宗次さんがこれまでの苦労を振り返り、笑いながらこんなエピソードを話す。

300号店出店のその日、直美に“ママ、よくまあここまでやってこれたなあ。二人三脚でこれたからこそ。まあ五分と五分だったな”と。そうしたら、すかさず“なに言ってんの!  アンタなんか2割でしょ! ”といきなり返されて。それ以来、妻が9の私1と言っているんです(笑)

 前出の秘書・中村さんも大きく頷く。

「直美らしい表現かも(笑)。でも、実のところ決定権を握っているのは直美ではありません。“パパの言うとおりにしなさい”って。本当にあうんの呼吸で仲よし夫婦だと思います(笑)」

 宗次さんを“師匠”と仰ぎ、夫妻とは30年以上の付き合いという作家の志賀内泰弘さん(61)も、

一見、はきはきと明るくて社交的な直美さんが引っ張っているように見えて、主導権を握っているのは宗次さんでしょうね。私生活ではお互いをからかい合う“夫婦漫才師のような夫婦”ですよ