助けられなかった老カップルへの思い
茶屋のテーブルに広げられたよれよれの白い紙は、ところどころ黄ばみ、保管されていた年月を感じさせる。そこに青いボールペンで綴られた達筆な字は、こんな書き出しで始まっている。
《前略 先日は私達二人の生命を助けて下さって有難度うございました。助言いただいたとうり金沢市役所にて……》
筆跡の乱れはなく、大きく伸びやかな字だ。
これは茂さんが警察官として現役最後の年に、ある高齢の男女から届いた手紙だ。
茂さんは、1962年に福井県警に採用されてから警察人生ひと筋。その大半を県警本部で過ごし、薬物や爆発物、マルチ商法などを取り締まる特別刑法にかかる事件の捜査を担当した。定年を間近に控え、東尋坊を管轄する三国署(現・坂井西署)の副署長に着任した。毎日1時間、岩場の遊歩道約1・5キロの道のりをパトロールした。
ところが、それまでの現場とは様相が一変し、自殺が相次ぐ現実を目の当たりにする。保護された人々の話に耳を傾け、彼らが用意した遺書を読んでみると、意外な事実がわかった。
「本当は死にたくありません」
「助けてくれるのを待っていました」
内に秘められていたのは、「やっぱり生き続けたい」という心の叫びで、それを誰かに聞いてほしかったのだ。
そんなパトロールを続けるうちに出会ったのが、先の老カップル。2003年9月3日の夕暮れ時、遊歩道のそばにある東屋でのことだった。
今も残るその現場で、茂さんが2人の様子を再現しながら説明する。
「男性のほうはベンチにあおむけになっていて、女性はその隣のベンチで座ってうなだれていました。男性は手首にけがをし、タオルで止血していました。“どうしたんですか?”と声をかけると“あっち行け!”と追い払われたのですが、説得の末、渋々口を開いてくれました」
2人は東京で居酒屋を経営していたが、借金が200万円に膨らみ、再起不能に陥って東尋坊に自殺をしにきたと打ち明けた。
茂さんは2人を病院に搬送し、地元の役場に引き継いだ。数日後、1通の手紙が届いた。目を通すと、2人はその後、500円程度の交通費を渡され、金沢市役所から富山県魚津市、新潟県の直江津市と柏崎市の役所をたらい回しにされていたことがわかった。手紙の最後はこう締めくくられていた。
《相談しようと三国署に行った際はもう一度東尋坊より自殺しようと決めていた二人が、皆様の励ましのお言葉に頑張り直そうと再出発致しましたが、─中略─ 疲れ果てた二人には戦っていく気力は有りません。─中略─ この様な人間が三国に現れて同じ道のりを歩むことの無いように二人とも祈ってやみません》
2人は便箋を買う金がなかったのか、チラシの裏に書いていた。封筒も同じチラシで作られ、バンドエイドで封がされていた。90円切手の未納を知らせる通知書も届いた。
なけなしの状態でしたためられた手紙が、すでに手遅れであることを物語っていた。
「最終の地」に記された新潟県長岡市の役所に茂さんが電話をかけ、2人の消息について尋ねると、こう告げられただけだった。
「うちの役所の近くの神社で今朝、首をつっているのが発見されました」
誰かが声を上げなければ、第2、第3の犠牲者が現れるのではないか──。
茂さんの最後の職場での1年間、発見された自殺者の遺体は21人、保護された人は約80人に上った。
茂さんが当時を振り返る。
「自殺は犯罪ではないから警察も踏み込んで対応できない。保護すべき行政も対応が不十分でした。亡くなった彼らは何も悪いことはしていない。社会や周りの人に追い詰められた構造的犯罪なんです」
無念の思いが、茂さんの心を揺さぶった。