この年は、YMOが春ごろに化粧品キャンペーンソング『君に、胸キュン。』で再ブレイクしたり、細野が作曲を手がけた松田聖子の『天国のキッス』や藤村美樹の『夢・恋・人』がヒットしたりと、細野晴臣らしいテクノポップスが大衆に受け入れられていた。そこに、売野雅勇が明菜に当て書きした、“強気さのなかに秘める純粋な部分”がよりクローズアップされた歌詞や、これまでよりも緩急を効かせた明菜の歌唱が意外なハマり方をして、従来のツッパリ路線ともテクノ歌謡とも一線を画する楽曲が生まれた。
その結果、アイリーン・キャラの『フラッシュダンス』や杏里の『CAT'S EYE』など、その年に大ヒットした映画とアニメの主題歌がヒットするなかでオリコン1位を1週獲得、洋楽曲を含まない『ザ・ベストテン』では、返り咲きを含み合計7週1位に。
明菜と売野、実は近しい存在 !?
なお、'83年から'84年にかけては『禁区』のほかに、『ルネサンス―優しさで変えて―』、『モナムール(グラスに半分の黄昏)』、『100℃バカンス』と合計4曲が、作詞・売野雅勇、作曲・細野晴臣のタッグで作られている。ここでの4曲は、それ以前の強さを押し出した歌唱から変化を見せているので、明菜自身もそれなりに理解を示していたのではないだろうか。
「細野さんがメロディーをつけてくれたものは、デモテープの段階から“もろYMO”って感じがして完全な状態で、めちゃくちゃカッコいいんだよ! この時期の曲は、アルバム用に依頼されて、曲が先に作られたあとに詞を書いたんだと思う。でも、その前の『キャンセル!』や『思春期』(ともにアルバム曲)は、もともとはシングル狙いで書いたね。あと、レコーディングはしなくて幻になったけれど『接吻(キス)』という作品も、そのころに書いたよ」
明菜自身は、この後『十戒(1984)』(1984年7月発売、シングル9作目)を最後に売野雅勇作品から離れていった。しかし、この2年間、“自分が好きな曲”と“ヒットする曲”の違いを認識することで、プロとしての自覚をより強く持ったのか、アイドルと呼ばれつつも自身の衣装や楽曲などをセルフ・プロデュースし始めるなど、本格的なアーティストとしての側面も垣間見えるようになった。彼女の新たな魅力が開花したという点から見ても、やはり、売野雅勇との出会いは大きいはず。そう考えると、中森明菜の『少女A』は、日本の歌謡曲史をひも解くうえでも重要な1曲と言えるだろう。
「俺にとっては『少女A』がすべての始まり。明菜や俺、芹澤さんを始めとして、いろんな人の人生を背負った楽曲になったと思う。それと、俺はだいたい不良が好きなんだよね。決して本格的な不良じゃなくて、(心に葛藤を抱える)“不良っぽいやつ”が。周りの友達もそんなのばかりで、優等生はむしろ嫌いだったんだ。だから、明菜ちゃんの歌い方はすごく伝わるものがあるし、俺と彼女は、本当は近いものを持っている存在だと思っているよ。もし、中学のときとかに同じ学年だったら、告白していたかも……なんて(笑)」
(取材・文/人と音楽をつなげたい音楽マーケッター・臼井孝)
【PROFILE】
うりの・まさお ◎上智大学文学部英文科卒業。 コピーライター、ファッション誌編集長を経て、1981年、河合夕子『東京チーク・ガール』、ラッツ&スター『星屑のダンスホール』などを書き作詞家として活動を始める。 1982年、中森明菜『少女A』