いじめられても伯父が「倍返し」
新津さんの生まれ故郷は、中国東北部の中心都市、瀋陽市だ。首都・北京から北東に車で約7〜8時間、北朝鮮やロシアとの国境にも近い遼寧省の省都である。
「夏は気温が30℃ぐらいまで上がり、男の人はみな、上半身裸にトランクス1枚で外を歩いていました。冬はマイナス35℃ぐらいになるんです。自分の息で前髪が凍ってしまうほど寒いです」
そんな寒暖差の激しい環境で、新津さんは3人きょうだいの次女として育った。ひとりっ子政策が始まる前のことだ。一家5人が住む平屋の自宅は、小学校の敷地内にあったのだといい、中庭を取り囲むように民家が並んでいた。
新津さんの両親は警察官で、わりと裕福な家庭だったという。
「当時の中国はまだ貧しく、家は高くて2階まで。テレビがあるのは私の家だけでした。白黒テレビで、チャンネルは1つ。それを隣近所みんなが集まって見ていました。食べ物も当時は政府による配給制で、白いご飯がなかったので、トウモロコシやコーリャンを炊いて食べていました」
そんな田舎の素朴な小学校生活を送っていた新津さんだったが、ある日、父のかけ声で家族会議が開かれ、突如として自分が日本人であることを打ち明けられた。
「日本と中国はもう友好関係にあるから、自分の両親を捜しに日本へ行きたい」
1972年9月に日中国交が正常化したことを受けた、父の心境の変化だった。
続けて見せられた1枚の写真には、馬にまたがった軍服姿の祖父が写っていた。話によると、祖父は日本の軍人だった。それを見た瞬間、新津さんの脳裏には、抗日戦争映画に登場する日本兵の姿が浮かんだ。
「中国の小学校では、抗日映画がよく上映されていました。侵略した日本兵に中国人が虐げられ、でも最後には中国人が立ち上がって勝つ。するとみんなが、うわーっと盛り上がって拍手するんです。だからうちのじいちゃんが日本人だと知り、映画の中で悪いことをした日本人の姿と重なりました」
父は中国で1歳のころ、養父母に引き取られ、中国人として育ったこともわかったが、その経緯については何も知らない。
養父母は父が13歳のときに亡くなり、以来、きょうだいも親戚もいない孤独な身で、近所の人々の世話になりながら、這いつくばるようにして生きてきたという。
父は第二次世界大戦のとき、旧満州に取り残された残留孤児で、母は中国人だったのだ。その事実が、のちの彼女の人生に暗い影を落とすことになる。
リーベングイズ──。
取材の中で唯一、新津さんが語った中国語だ。
「日本鬼子」と書き、日本人に対する蔑称を指す。
父が日本人であることを打ち明けられて以来、新津さんは小学校でたびたび、その言葉を同じクラスの生徒から浴びせられた。両親を探すために父が訪日するという予定が、どういうわけか学校側に知れ渡ってしまったからだ。いじめは言葉による誹謗中傷だけにとどまらず、時には石も投げつけられ、泣きながら家に帰った。
新津さんが苦い思い出をしみじみ語る。
「私、何か悪いことしたかな? と。納得できないですよ。でも逃げるしかありませんでしたからね。うちの親からはもともと“学校が終わったら、すぐに帰るように”“目立たないように”とずっと言われていました。そのときは理由がわからなかったんですが、いじめられるようになってから気づきました。“いつか倍返ししたい”っていう気持ちが頭の中で膨らみましたね」
いじめは続いたが、学校は休まなかった。そんなある日、母方の伯父に連れられ、いじめた側の生徒の家へ押しかけた。伯父はその家の中で、椅子を振り回すなど大暴れし、手当たり次第に破壊したのだという。さらに相手の生徒に「今度、いじめたら命はないよ」と最後通告までしたのだ。
「相手の親もいたんですけど、伯父さんは強かった。その姿を見て、何か言われたらやり返せばいいんだという気持ちになりました」
新津さんは現在、職場でおかしいと感じたことや納得いかない場合は、思ったことを率直に言うタイプだ。そのたくましさは、この伯父さんが目の前で見せてくれた「倍返し」が、原点になっているのだという。