「四郎が亡くなってもう1年ですか……。早いですね。私の周りの仲間もどんどん亡くなっているから、私もそろそろですよ……」
'67年に沢田研二や岸部一徳らで結成された『ザ・タイガース』。その元メンバーだった加橋かつみは、昨年の8月28日に急性心不全で亡くなった岸部四郎さんを偲んでこう語ってくれた。
「彼は中学のときから知っているからね。われわれがアマチュアのときからの長い付き合いだったから余計に悲しいね」(加橋)
'69年に加橋がグループを脱退する際、兄の一徳からのオファーで入れ替わるように加入したのが四郎さんだった。
「軽妙な語りでライブの幕間を盛り上げるなど、トーク力に定評がありました。'71年のタイガース解散後は、ドラマや情報番組の司会など仕事の幅を広げていき、たちまちお茶の間の顔に。最盛期の年収は約2億円とも言われています」(スポーツ紙記者)
四郎さんのことは話題にできない
順風満帆な芸能生活は'98年に一変。高額な骨董品の収集といった浪費癖や、サイドビジネスの失敗によって約5億円の借金を抱え、利息の返済だけで月1千万円を超えた四郎さんはやむなく自己破産することになった。
「破産後も'03年に脳内出血で倒れて後遺症が残ったり、'07年には14歳年下の奥さんに先立たれるなど、相次ぐ不幸で徐々に体調を崩すように。'09年ごろからは車イスが欠かせなくなるなど、身の回りのことも難しくなって、東京近郊で姉と一緒に暮らすようになったそうです」(同・スポーツ紙記者)
前出の加橋は、苦難続きだった四郎さんの晩年に心を痛めている。
「長い闘病生活で苦しかったでしょう……。それだけにメンバーみんな、かわいそうという思いがあって、彼のことは話題にできないんですよ」
そんな彼を最後まで支え続けていたのが、兄の一徳だった。
「四郎さんは'14年に開催されたタイガースの元メンバー・森本太郎さんのライブに、車イス姿でゲスト参加したのを最後にメディアには出なくなりましたが、一徳さんはその後も、金銭的な援助やお見舞いを欠かさなかったそうです」(芸能プロ関係者)
'15年8月、週刊女性が四郎さんの容体について取材した際も一徳からは、
《元気になった時にはぜひ(取材に)来てほしい》
という、コメントが寄せられていた。
最後まで再起を信じていた一徳は、弟の死について沈黙を続けているが、彼の一周忌をどのように迎えるのか。所属事務所に聞いてみると、本人からこのような返答が。
「弟はそっとしておいてほしいと思うだろう。家族としては、一周忌だからといって(言えることは)特にない」
複雑な胸中を語ってくれた一徳は、波瀾万丈の人生だった弟を今でも静かに思い続けているに違いない。