『秋刀魚の歌』佐藤春夫

 春夫が作家として活躍していく端緒として谷崎潤一郎の推薦がありましたが、谷崎の妻・千代をめぐる三角関係から、友人関係にあったふたりの関係は一変します。『秋刀魚の歌』は千代への思慕を綴った作品です。

井伏鱒二、太宰治、遠藤周作といった大作家にも慕われていた佐藤春夫 イラスト/長田直美
井伏鱒二、太宰治、遠藤周作といった大作家にも慕われていた佐藤春夫 イラスト/長田直美
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『秋刀魚(さんま)の歌』佐藤春夫

 あはれ 秋風よ 情(こころ)あらば伝へてよ

 ──男ありて 今日の夕餉(ゆうげ)に ひとり

 さんまを食ひて 思ひにふける と。

 さんま、さんま

 そが上に青き蜜柑(みかん)の酸(す)をしたたらせて

 さんまを食ふ(くらう)はその男がふる里のならひなり。

 そのならひをあやしみなつかしみて女は

 いくたびか青き蜜柑をもぎて夕餉にむかひけむ。

 あはれ、人に捨てられんとする人妻と

 妻にそむかれたる男と食卓にむかへば、

 愛(あい)うすき父を持ちし女の児(こ)は

 小さき箸(はし)をあやつりなやみつつ

 父ならぬ男にさんまの腸(はら)をくれむと言ふにあらずや。

 あはれ 秋風よ 汝(なんじ)こそは見つらめ

 世のつねならぬかの団欒(まどい)を。

 いかに 秋風よ いとせめて 証(あかし)せよ

 かの一(ひと)ときの団欒ゆめに非(あら)ずと。

◯あはれ
「切ないねえ」という意味です。

◯夕餉
「夕食」の意味です。

◯(男)が(ふる里)
「連体格用法」と呼ばれるものです。受ける体言が下の体言に対して修飾限定の関係に立つことを示します。現代語では「が」の代わりに「の」が用いられます。

◯あやしみなつかしみて
「不思議に思って、それでもおもしろがって」という意味です。

◯腸をくれむと言ふにあらずや
「秋刀魚のはらわたをあげるよと言っているよ」という意味です。

◯汝こそは見つらめ
「おまえだけは見ていただろう」という意味です。

◯団欒
「親しい者同士が集まって、楽しく語りあったりして時を過ごすこと」です。

◯いとせめて 証せよ
「せめて頼むから、証明してくれないか」という意味です。

◯ゆめに非ずと
「夢ではなかったということを」という意味です。

☆ワンポイントアドバイス
 友人・谷崎潤一郎の妻への同情が恋心に変わり、ついにその女性を自分のものにした喜びと、反対に声にならない哀しみと切なさを歌ったものです。でもちょっと自虐的に笑ってしまっていますね。

佐藤春夫(さとう・はるお)●明治25(1892)年〜昭和39(1964)年、和歌山県生まれ。詩人、小説家。詩と小説のほか、戯曲、評伝、随筆、評論、童話、翻訳など、文学のありとあらゆる分野に足跡を残しています。代表作に小説『田園の憂鬱』、詩集『殉情詩集』などがあります。