スーパーで涙した母親の姿

 1970年、アメリカ・モンタナ州で生まれた。

「モンタナはカナダとの国境にあってチョー寒い。北海道、いや、北方領土だよ!」

 凍てつく寒さと連動するように、両親の関係が冷え切っていったのは、父親の仕事が特殊だったことも大きい。

「空軍に勤務する父の任務は、核ミサイルの発射スイッチを押すことでした。ベトナム戦争のときです。指令が入れば、自分のひと押しで、膨大な数の人が死ぬことになる。結局、押すことはなかったけど、指令を待つ父は、日々すごいプレッシャーだったと思います」

 極限のストレスを抱える父親は、休みの日は寝てばかり。子育てに追われる母親を気遣う余裕はなかった。

「結局、父が空軍アカデミーの教官になるため、一家でコロラドに移ったころ、両親は限界を迎えたんです。僕が8歳のときに離婚しました」

 その後、母親はパックンと2つ上の姉を引き取り、出版社の校閲の仕事や保険の外交員をしながら生計を立てた。

 ところが、4年ほどして、家計は火の車になった。

「お母さんがリストラされて、収入が不安定だったところに、父の養育費が一方的に打ち切られたんです。姉が父と暮らすことになって、『これで子どもは1人ずつじゃん。もう払わない』って。それからは本当に貧しくて、生活保護を受けた時期もあります」

 パックンには、今も忘れられない光景がある。

 母親とスーパーに買い出しに行ったときのことだ。

「生活保護の受給者は、フードスタンプというクーポンで食料が買えます。使うと生活保護だとバレる券です。その日、昔から飼っていた犬のドッグフードをクーポンで買おうとしたら、人間以外の食料には使えないと断られて。お母さん、レジで言い争いになって、最後は泣き出しちゃった。みんなに見られて、悲しくて、情けなかったな」

 テレビも買えず、洋服の替えもない。牛乳は高いので、マズい脱脂粉乳を飲み、鉛筆は学校で落ちているものを拾って使った。

 しかし、貧しさを語るパックンに悲壮感はない。

 それどころか、晴れやかな顔で当時を振り返るほどだ。

「友達の家に遊びに行くと、お母さんが僕の分も夕飯を作ってくれました。それも毎晩だよ。ジェイソンママにダリウスパパ。懐かしいなあ~。スキー合宿やテニスに連れて行ってくれるお父さんもいてね。同じ教会に通う一家は、『留守でも自由に入って冷蔵庫のものを食べていい』って玄関の暗証番号を教えてくれてました。だから、人の家なのに、『おかえり』って僕が迎えることもしょっちゅう。ほんと感謝してます」

 多くの人がパックンをわが子のようにかわいがったのは、持ち前の性格のせいだろう。

「オレ、貧乏のコンプレックスはあったけど、人を嫉んだり、卑屈になることはなかった。子どものころから落ち着きがないと叱られるほど活発で、メーター振り切るくらい陽気でしょ。人から『どうぞ』って言われたら、遠慮なく『ありがとう』って乗ってしまう。この図々しさは、それからも生きるための、オレの武器になりました」

 小学校高学年になると、勉強でもメキメキと頭角を現し、地域の優等生を集めた特別クラスで英才教育を受けた。中学校に入ると、母親の提案で、さらにやる気に火がついた。

「お母さんは仕事が忙しくても、僕のレポートの宿題をよく添削してくれました。出版社の校閲をするほど教養のある人なので完璧です。それで、お母さんが提案したんです。『パトリック、成績がオールAだったら、好きなもの何でも食べさせてあげるよ』って。うわお!ですよ。その契約をしてから、ますます頑張って、中学時代からずっとオールA。お母さん、わかってるね。男の子は胃袋で釣れるって!」

 笑いにすり替えるが、パックンは気づいていたのだ。

 母親が、夜中にひっそりと支払い用の小切手帳を見て泣いていることを。

「お金のことが不安でたまらなかったんですね。僕はハグして、『大丈夫だよ』って言うことしかできなかったけど、心に決めてました。絶対、お母さんに心配をかけない。お母さんを喜ばせるんだって」