3児のママ、医学生になる
「今年ダメだったらやめよう」
そんな覚悟を決めて臨んだ8度目の受験。倍率20倍の試験を突破して、39歳で合格をつかみ取った。
知らせを受けた夫の脳裏に真っ先に浮かんだのは「どうしよう」という言葉。
「私立だから、貯蓄だと初年度の学費しか払えないよーと(笑)。その日から、銀行、信金、労金回りです。あとは何とか奨学金で頑張ってと」
2005年4月、藤田保健衛生大学(現・藤田医科大学)に入学。夫を北海道に残し、貴子さんは幼児2人を連れて愛知県にある大学の近くに引っ越した。
医学生と母親業と。休む間もない生活を助けてくれたのは、母の睦子さんだ。ほぼ住み込みで炊事、洗濯、掃除など家事を手伝ったという。
「貴ちゃんが子どものころ手をかけられんだったけん、罪滅ぼしみたいな気持ちもありました。おわびの言葉は口に出しては言わんかったかもしれんけど、ずーっと一緒におって、手伝ってやりました。松江の家は草がボーボー生えても、放っちょいてね」
当時、母はすでに70歳近く、無理はさせられない。貴子さんは子どもたちを保育園から連れて帰ると、ご飯を食べさせて、お風呂に入れる。仮眠をとった後、再び大学に行って勉強をした。休日に勉強会などがあると子連れで参加。子どもたちを公園で遊ばせるときは、自作のノートを持ち歩き、暇さえあれば目を通した。
大学2年のとき、夫の充雅さんも北海道からやってきた。愛知県内にある工場に転勤願を何度も出したが通らず、退職したのだという。
大手企業を辞めることに不安はなかったのかと聞くと、おだやかな口調で答える。
「迷いは何もなかったですよ。こっちに来て、また一から何かやればいいかなーと」
にわかに信じられないでいると、こう付け足した。
「職場の人とか、みんなに変だと言われましたよ(笑)。普通なら、受験の段階で離婚しているって(笑)。でも、僕は夫婦なら協力するのは当たり前だと思っていたので」
充雅さんは医療事務と予備校の講師の仕事を掛け持ちして生活を支えた。その後、自分で会社を立ち上げて、教育コンサルタントとして働いている。
こうした家族の応援があったにもかかわらず、貴子さんは3年生に上がれず留年してしまう。
実は、2年生の途中で次男を妊娠。出産前に大腿部に腫瘍が見つかり摘出手術を受けたのだ。
「整形の腫瘍って、助からないことが多くて、『エー、どうしよう』とすごく動揺して、勉強が手につかなかったのもあります。境界悪性でしたが、幸い術後の再発もなく5年たちました」
次の年もまた留年。再試験まで受けても、どうしても受からない科目があった。
「小・中学校の先生から『おまえはダメだ』とずっと言われていたせいか、試験に対して苦手意識がすごくある。だから試験用紙を前にするとあがるんですよ。特に、一発勝負の大事な試験だと、パニックになって頭が真っ白になる。〇を選べと書いてあるのに×を選ぶとか、ケアレスミスも多くて。1点、2点足りなくて落ちるとか、そんなのばっかりでした」
試験であがらないようにする方法を伝授する本を片っ端から読んだり、催眠療法を何回も受けたり。克服するために相当な努力をしたが、医学部はとにかく試験が多い。卒業後の医師国家試験を含めて最後まで苦労した。
留年は1学年で2回までしか認められないので、貴子さんはいったん自主退学。落とした科目を1年間聴講生として受講し、最後の試験をクリアして、復学した。