何が息子を駆り立てたのか

 事件当時、聡は実家を離れ、妻と生まれたばかりの子どもと義母と4人で同居していた。聡はすぐに、支配的な義母との関係に悩まされるようになった。

 家庭では誰も、義母が決めたルールに逆らうことはできなかった。長時間の肉体労働でクタクタになって帰宅しても、義母より先に風呂に入ることはできず、食事も残っていなかった。

「若いのに寝るな!」

 そう言って、睡眠を妨害されることもあった。

 文子が聡を訪ねたとき、義母や妻が立派な服装をしているにもかかわらず、息子はボロボロの服を着ていた姿に驚いたことがあった。文子は、息子の給料だけでは生活が苦しいのではないかと心配し、現金やコメを仕送りしていた。

 ところが、生活に余裕がないはずの聡は、妻が喜ぶと高級車を購入するなど明らかに無理をしていた。アルバイトも始め、しばらくすれば妻も働くとローンを組んだが、家計の収入は増えず、借金は膨らむ一方だった。

 義母や妻の機嫌を取ろうとどれだけ努めても、義母からの暴言・暴力は止むことがなかった。そしてある日、穏やかだった息子の理性は崩壊してしまう。

「おまえの家族は何もしてくれない!」

 聡は義母から殴られると同時に、身の回りを侮辱する言葉を浴びせられ、犯行に及んだのだ。

「どうしてうちの子が……。正直、ずっと悩み続けてきました。他の子と比べても、特別なところはなかったはずなのに」

死刑囚となった聡(仮名)による作品。何を思いながら描いたのだろう
死刑囚となった聡(仮名)による作品。何を思いながら描いたのだろう
【写真】死刑囚が書いた絵

 若く未熟だった聡は事件後、さまざまな専門家や支援者との交流を経て改悛の情を深めてきた。

 絵を描く趣味があったわけではないが、拘置所でできることは限られていることから、償いとして故郷の絵を描き続けてきた。支援者たちがその絵を基にカレンダーや団扇等を製作して販売し、売上金を遺族に送り続けてきた。

 裁判員裁判で被害者家族として参加した遺族は、判決後、支援者や加害者家族との交流を経て、死刑判決に対する考えに変化が生じ、上告では死刑を支持しない上申書を提出したが、上告は棄却されている。

 聡と家族を支える会には多くの人々が参加しており、死刑執行のニュースを聞く度に拘置所にいる聡に思いを馳せ、家族の不安に寄り添ってきた。

「身近な人が死刑囚になって、死刑は残酷な制度だと考えるようになりました。家族だけでなく、聡君を支えていた多くの人々が絶望のどん底に突き落とされるでしょう」

 支援者のひとりはそう話す。文子も言葉を漏らす。

「いつか息子の番が来るのかと思うと……。苦しいです」

 家族と支援者は、再審請求を続けている。