おもしろそう!と思ったらすぐ動く性分

 三陸海岸を代表する都市のひとつであり、本州最東端の町としても知られる岩手県宮古市。2011年3月11日の東日本大震災では津波で大きな被害を受けた。今も復興中のこの地で、須合さんは1970年12月に生を享けた。

 家族はサラリーマンの父とパート勤務の母、3つ年下の弟。幼いころから活発で、野球好きの父が仕事から帰ってくると、毎日キャッチボールをするのが日課だった。三陸海岸でとれたカニやウニなどの魚介類、タラの芽など山の幸といったおいしいものの多い土地柄で育ち、味覚もおおいに鍛えられたという。

 小学校入学時に盛岡に引っ越してからも元気はつらつ。病気ひとつしなかった。両親からは「悪いことをしちゃダメ」と言われるくらいで、「やりたいことは伸び伸びやらせてもらえる環境で、ごく普通に過ごしてきた気がします」と、彼女は柔らかな笑みをのぞかせる。

 そんな中にも、今に至る行動力と積極性をうかがわせるエピソードがあった。小学6年生のとき、須合さんは児童会役員に自ら立候補し、選挙戦に打って出たのだ。

子どもたちと保育園にて。辻さんとはそれ以来の付き合い
子どもたちと保育園にて。辻さんとはそれ以来の付き合い
【写真】華奢な身体ながらに重労働をこなす須合さん

「推薦責任者を立てて、画用紙に“(旧姓の)佐藤美智子”とデカデカと書いたポスターも作って貼り、体育館で演説会をしました。

 当時は1学年3クラスで120人くらいいましたから、6学年で700人超の生徒を前に壇上でスピーチしたことになりますね。動機は単にやってみたかったから。

 “学校をよくしたい”といった大層な考えがあったわけじゃない。おもしろそうと感じたから、すぐに動いた。それが自分なんです」
と、彼女は言う。

 やがて中学、高校へと進むにつれ、看護師になる夢を抱くようになった。

「真剣に考えていましたが、受験科目に苦手な理数系があり、断念せざるをえなくなりました。大学進学も考えていなかったので、就職しようと思い立ったんです」

 両親は岩手県内、遠くても同じ東北地方の仙台での就職を希望した。しかし、目ぼしいところがなく、少し視野を広げた。そこで浮上したのが、東京・台東区に本店を構える朝日信用金庫。銀行業務にはさほど興味はなかったが、「堅い就職先のほうが親も安心するだろう」という理由から選択し、無事に内定を得た。

「東京は遠いな」と嘆く両親に申し訳なさを覚えつつ、須合さんはバブル絶頂期の'89年春に上京。女子寮で生活しながら、銀行に通う新たな日々をスタートさせた。

「担当したのは預金係。窓口業務もやりました。当時はそろばんを使っていた時代で、1円合わないと最初からやり直しになったりして本当に大変でした。銀行の裏側を知れたことは楽しかったですね。

 平日は22時が寮の門限。仕事が長引いて遅れそうになると上司が電話で事情を説明してくれたんですが、寮監さんに嫌な顔をされるのが日常茶飯事でした」と苦笑する。

 模範的な若手行員生活を4年ほど続けたころ、窓口近くのATM両替機のところにやってきた1人の青年と目が合った。挨拶を交わし、何度か会話するようになったある日、こんな誘いを受けた。

「今度、バーベキューがあるんだけど、一緒に行かない?」

 男性は近所の中華料理店の2代目である後継者。3つ上の未来の夫との出会いである。これを機に交際が始まり、1年ほどたったころ、プロポーズを受ける。

「田舎の友達も何人か結婚しているし、今くらいのタイミングでお嫁に行くのは普通かな」と、すんなり寿退社を決意。いつか岩手に戻ってきてくれると信じていた両親は落胆したようだが、反対することなく、快く娘を送り出してくれた。

「サラリーマン家庭で育ち、東京で5年働いて、23歳で結婚と、ここまでの私は平凡な人生を送ってきました。それに対して何の疑問も抱きませんでした」と、須合さんは若かりし時代の偽らざる本音を打ち明ける。