1月19日、39歳の誕生日を迎えた歌手宇多田ヒカル。15歳で鮮烈デビューを飾った彼女の母もまた「天才」だったーー。放送コラムニストでジャーナリストの高堀冬彦さんによる寄稿。

母娘ともに“天才”

「さっき2個立て続けに見つけた!!! あけましておめでとうございます」

 宇多田ヒカルが、こんな年始の挨拶を1月5日の自分のインスタグラムに載せた。一緒に掲載した写真は路上に落ちている2つの使用済の絆創膏。無邪気だ。

 半面、アーティストとしてはもうベテランと呼んでいいだろう。まだ15歳だった1998年に『Automatic/time will tell』でデビューしてから23年が過ぎた。

 この間、ずっと超A級の評価と人気を維持してきた。昨年末に終了したTBSドラマ『最愛』の主題歌で最新曲の『君に夢中』も同11月末にリリースされた途端、各種ヒットチャートでトップに躍り出た。

 ボーカリストとしての特色は歌声を震えさせるビブラートと、裏声の一種であるファルセットなどを自在に駆使できるところ。だが、一番の魅力は傑出した表現力に違いない。その歌声は聴く側の胸を揺さぶる。

 1969年、やはり希代の表現力を持つ18歳の歌手が『新宿の女』という曲でデビューした。ヒカルの母・藤圭子さんである。

 母娘は誰もが「天才」と認めるところも一緒。デビュー前から藤さんを知り、作品も手掛けた音楽プロデューサ―の故・酒井政利さんは2年前の筆者の取材にこう証言していた。

「藤さんはデモテープを一度聴くだけで歌を完璧に覚えてしまった。まさに天才でした。また、どの部分に力を込めれば聴く側に思いが届くのかを本能的に知っていた。譜面通りに歌えるのとは別次元の人でした」(酒井さん)

 これは宇多田にも当てはまるだろう。この母娘はボーカリストとして共通点が多いだけでなく、歩みも似ている。

 1951年に生まれた藤さんの父親は浪曲師で、ほぼ盲目で三味線弾きの母親と一緒に旅回りをしていた。藤さんは北海道旭川市の自宅アパートで姉、兄と両親の帰りを待つ日々だった。

 きょうだい3人の食費はそれぞれ1日10円ほど。おかずが醤油しかない日もあったという。藤さんは当時を「見るものすべてが食べたかった」と振り返ったことがある。

 藤さんは小学生になると、両親と一緒に聴衆の前で歌い始めた。その歌唱力は図抜けており、早くから天才と呼ばれるようになる。

 片や1983年に生まれたヒカルの幼いころはどうだったかというと、藤さんはキャバレーやクラブを回っていた。藤さんは1982年に新進ミュージシャンだった宇多田照實氏(73)と結婚したものの、自分がキャバレーなどを回らないと一家が生活できなかった。

「宇多田さんはヒカルさんが生まれてから数年は経済力が十分ではなかった」(藤さんをデビュー前から知り、晩年近くまで親交のあった音楽プロデュ―サー)

 なぜ、藤さんの歌う場がテレビ番組やコンサート会場ではなく、キャバレーだったのか。それは藤さんの全盛期が極端なまでに短かったから。藤さんが売れたのは4枚目のシングル『命預けます』まで。23歳だった1974年に手術でポリープを切除したところ、声質が変わってしまい、以降はヒットと縁遠くなってしまった。

 キャバレーまわりをしていたころの藤さんは、晩年近くまで親交のあった前出の音楽プロデュ―サーのところへ挨拶に出向いている。

「ポリープを切除したころは『昔のように歌えないから、つまんない』とボヤいていたが、キャバレーまわり時代は楽しそうだった」(同・藤さんと親交があった音楽プロデュ―サー)

 ヒカルが生まれ、歌う目的が明確になったためだ。