孤高の天才画家・ピカソとの交流

 1968年春。松井は南仏のアトリエでピカソと対面する。南仏らしい乾燥した空気が辺り一帯を包む、光が差し込む、よく晴れた日だった。ピニョンの後についていくと、「ここから先は君1人で行きなさい」と伝えられた。扉を開けると、じっと松井を見る、ピカソがいた。

「お前に会うためにとった時間で、本来なら残せた傑作が、この瞬間に消えているかもしれないんだ。私に会うというのは、そういうことだ」

 開口一番、そう言われた。圧倒され息を呑む松井をしり目に、ピカソはこう続けた。「私の絵を、どう思う?」と。

「背筋が凍って、頭の中が真っ白になった。懸命に彼の傑作群を思い浮かべ、僕は『形も色も見えない。光しか見えません』と答えていた。すると、ピカソの表情が徐々に柔和になって、『よし、明日から来なさい』と言われた。対面した時間は、とても長く感じたけど、とにかくピカソの目が忘れられなかった」

 亡くなる1973年まで、天才芸術家との交流は続いた。ピカソとの思い出。一例を挙げて懐かしそうに振り返る。

「彼は、いつもゆるゆるのTシャツに、ステテコのような大きなパンツをはいて絵を描いていた。天才芸術家とは思えないほどラフな姿で、まるで風呂上がりのおじさんのよう(笑)。

 親しくなってから、『絵を描いているときは鬼気迫るものがあるけど、描き終えると普通のおじさんですね』と言ったことがあった。するとピカソは『俺は絵描きだから絵にすべてを捧げている。あとはどうでもいい』と笑っていた。 生きているときに好きなように生きたい、それが彼の哲学だった」

 90歳近い晩年のピカソは、大きな絵が描けなくなっていた。はしごに上ることが難しくなっていたからだ。その姿を見て、松井は若い時代にこそ大きな絵を描こうと決意する。

 パリで再会した山下洋輔さんは、当時の松井の暮らしに目を見張ったという。

「絵描きになるといって渡仏しても、結局は街中で似顔絵を描いているレベルで止まっているケースも多いもの。ところが、松井さんはパリ十六区にある最上階の日当たりのよい、天井が高く大きな部屋にアトリエを構えていた。一目で、結果を出しているとわかり、安心しました。しかも、ショパンとジョルジュ・サンドが同棲していたというアパルトマンだったんです」

 とはいえ、稼ぎのほとんどは家賃と光熱費に消えていったが、どうしても大きな絵を描きたかった。夜遅くまでキャンバスと向き合うため、部屋の電気を共用部分から拝借し、大家に見つかってしまったこともあったという。

「泥棒扱いされ責められるかと思ったら、僕が画家だとわかると『絵を見せてほしい』と言う。部屋に招くと、大家は『このままここにいてほしい』と言うんだ。驚くことに、僕が大成すれば、この部屋に箔が付く。だから追い出すことをしなかった。芸術が経済原理の大きな一翼を担う。それがフランスという国なんだ」