バイク事故で砕けた「3億円の価値」
実は修業中、渡邉家に最大のピンチが訪れていた。バイクで通勤中の格さんがトラックに左肩と肩甲骨を轢かれ、複雑骨折する大ケガを負ったのだ。
「事故に遭ったとき、なぜかすぐ立ち上がって“ラッキーだな、俺”と思ったのを覚えています。その後、すぐにひざから崩れ落ちましたけど」
格さんが一瞬でもラッキーと思ったのにはわけがある。'90年代、ネット上の設問に答えて人間の価値を算出するゲームが大流行。テレビでは錚々(そうそう)たる著名人が「俺は2億円」「こっちは1億8千万円」とはしゃいでいる。大学時代、同じゲームをやってみた格さんの結果は日本第1位。なぜか運だけが特出しており、その価値は3億円を超えていた。
「ただのゲームですが、運だけは最後の自信としてずっと持ち続けていたんです。みじめな思いを抱えた一方で、いつか自分はいっぱしのものになるという根拠のない自信も持っていて。それがこの一件で、自分は事故るし、死ぬ可能性もある。運だけではやっていけないと思えたんです」
ここで努力して根を広げなければと奮起するきっかけになったバイク事故。「自分にとっていちばんいい経験だった」と格さんは語る。
入院中は乳酸菌の専門書を読み込み、1か月で職場に復帰した。並行して製パン理論を丸暗記。日本酒の醸造方法も学び、まだ見ぬ自分の店で将来的にエースになる酒種パンも開発した。
2008年、千葉県いすみ市に念願の天然酵母パンの店をオープン。ふたりで貯めた500万円を軍資金に、足りない部分はDIYで補った。名前の『タルマーリー』は、イタルとマリコから取った。
少しずつ取引先も増えていったある日、自然食品店『ナチュラル・ハーモニー』の開発担当者が店を訪れた。
そこで、「純粋培養した麹ではなく天然麹菌でパンが作れたら日本初になりますよ」とハッパをかけられる。
「俺はこれを成し遂げるために生まれてきたんだ!と思いました。けれど、そこからが大変だったんです」
それまで、酒種パンの製造に必要な3つの菌のうち酵母と乳酸菌は野生のものを採取し、麹菌は購入していた。すべてを野生の菌にするために、まずは老舗の味噌屋から天然麹を分けてもらう。
ところが、野生の菌は純粋培養の菌とまるで勝手が違い、今まで作っていたパンが全く膨らまない。試行錯誤を繰り返すが、納得のいかないパンができてしまうことも多かった。
「落ち込みましたね。自分ひとりだったら、値段を下げていたと思います。作り手にとって金額のプレッシャーってものすごいんですよ。いい原材料、高い技術で値段に見合った商品を出さなければいけませんから」
その重圧を抱えながら、菌を探して野山をうろつく。1年目はダメで、似た菌は採取できたものの2年目も野生の麹菌には出会えなかった。
「うちは野生の麹菌を使っているので、図らずも欠品してしまうこともあります」
問い合わせがあると、まず丁寧にそう伝え、理解してもらえる取引先だけが残った。欠品の際は、酒種以外を使ったパンで急場をしのいだ。それでも麻里子さんは、頑として値段を下げなかった。
「天然の麹菌を使うようになって、欠品も増えました。でも、天然ってそういうものだし、わかってもらえるまで相手に伝えるしかない。そこで自信を持って“欠品です。なぜなら……”と言えるのが私の特殊技能らしいと最近わかりました(笑)」
試行錯誤しているうちに、無肥料無農薬の自然栽培米を使って酒種を作るとうまく膨らむことがわかった。しかし子どもは小さく、パン作りもまだまだ不安定な状態……。
そんな若夫婦に手を差し伸べたのは、東京に住む麻里子さんの母・利恵子さん(74)だ。しばしば千葉まで足を運び、家事や育児をはじめ、麻里子さんが息子のヒカルくんを自宅で出産したときも手伝った。ふたりのことを「お互いが影響しあえるいい夫婦」と温かく見守る心強い存在だ。
野生の麹を採取するためには、よりクリーンな環境に移る必要があることに気づいていたものの、この場を離れるなんて考えられない……。そう思っていた矢先、東日本大震災が起きた。子どもたちが小さいこともあり、放射性物質も気になる。
2012年、一家はより水のきれいな環境を求め、親戚も知り合いもいない岡山県勝山に移り住んだ。