大切な人だった。だから別れなかった

 検察は平被告の行為を、「殴ったり蹴ったりするより命の危険性が高く悪質」とし、曾我さんの非をあげつらうような主張を繰り返していて反省していないと非難、むしろ“死人に口なし”で都合のいいところだけを話すことも可能だとした。

 そして、2回目の抑え込みの際に曾我さんは凶器も持っていなかったのだから抑え込む必要などなかったとして懲役7年を求刑した。

 弁護側はあくまで病死の可能性が否定できない以上、因果関係が成立しないとして無罪を主張。また、解剖を担当した医師に正確な情報が伝わっていなかった可能性も指摘し、曾我さんの平被告へのDVについても裏付けがあるとした。

 すでに保釈され、実母と暮らしている平被告は終始冷静な態度で裁判に臨んでいたが、事件当日の曾我さんの和服姿を見せられると証言台で号泣した。

裁判では曾我さんが暴れていた場面を説明するために、酔っていた時の曾我さんばかりを思い出していたが、本当に心に残るのは笑顔の曾我さん。(別れろと周囲から言われたが)大切な人だった。だから別れなかった。」

 青森で生まれ育った曽我さんは、両親にとって流産を繰り返した上に生まれた宝物だった。松山へ来てからも、一人で暮らす母親に月15万円を仕送りしていた。

 平被告はすでに支払った700万円の慰謝料のほかに、曾我さんがしていた仕送りと同額を受け取ってもらえるならば今後も仕送りし続けたいと話した。

「私、このままだと(平被告に)殺されるかも」

 生前、母にそう話していたという曾我さん。DVに走る一方で、心療内科へ自ら通院もしていたという。「殺されるかも」という言葉の本当の意味は、どうしようもない衝動を曾我さん自身が悩んでいたがゆえに出た言葉だったのかもしれない。

 殺されてしまった以上、その真相が明らかになることは二度とない。「死なせなくてもいいじゃないですかーー」。曾我さんの母親の悲痛な叫びを、被告はどう受け止めたのだろう。

 令和4年2月18日、松山地方裁判所は平被告に対し、懲役6年の実刑判決を言い渡した。

事件備忘録@中の人
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