覚醒剤、レイプ、自殺未遂
中学1年のとき、再婚をきっかけに迎えにきたのは父親だった。
「暴力団の組長になっていた父は、親分として一家を構え、違法なポーカーゲーム店も何軒か経営して羽振りもよかった。家と棟続きの事務所では賭場が開帳され、丁半博打に勝ったお客さんからお小遣いをもらえた。私は毎晩のように友達を引き連れて、渋谷のディスコまでタクシーを飛ばして遊びに行きました」
横浜市内から10万円のお小遣いを握りしめて渋谷へ。中1にもかかわらず、ディスコだけでは飽き足らず、ホストクラブに入り浸ることもあった。
「ファミレスに行ったら、友達が遠慮するから“なんでも好きなもの食べな”と言ってメニューを上から下まで全部頼む。ホストクラブでは、財布ごと渡してお会計をする。みんな私がお金を持っているからついてくるのに、偽物の優越感に浸っていました」
初めて覚醒剤に手を出したのも中学1年のときだ。
事務所に行くとパケに入った覚醒剤が無造作に置いてある。ある日、ひとつくすねたら、若い衆に「やったら死んじゃうんだよ」とたしなめられた。
しかし、組長の娘は一歩も引かなかった。
「くすねたのがわかったら、あんたが殺されるよ」
そう脅して、初めて身体に入れた。
「ほんの好奇心から手を出しましたが、打った瞬間に両親に会えなかった悲しみや、いじめられたこと、母に捨てられたこと、母のヒモにいたずらされたことなど、嫌なことを全部一瞬で忘れられた。すごい薬だと思いました」
竹田さんは、あっという間に覚醒剤に溺れ、依存─。転落の始まりだった。
「中2のとき、不良仲間にレイプされ妊娠していることがわかりました。堕ろしたくても親を連れてこいと言われる。でも、そんなこと、口が裂けてもウチの両親には言えない。衝動的に家にあった漂白剤を飲んで自殺を図りました」
一命はとりとめたものの、胃洗浄の衝撃で赤ちゃんは流産。2週間ぶりに家に帰ると、両親は捜索願を出すどころか、「おかえり」の言葉ひとつかけてこなかった。
「私が自殺するほど悩んでいたのに、私の姿が見えているのかな?と……。この家にも居場所がないと思って、高校を2週間でやめ、家を出て水商売の世界に入りました」
継母の紹介で住み込みのパブクラブで働き始めた。16歳のとき、店の関係者と結婚。夫は束縛が激しく、何度も暴力を振るわれた。その夫から逃げるため、今度は店舗型の風俗店で働き始めた。
竹田さんにとって風俗の世界は「私の居場所」と思えるほど居心地のいい場所だったという。
「風俗はお客さんが私を求めて来てくれる、私を必要としてくれる。すぐにお金になるし、頑張れば頑張るほど自分の価値が上がる世界に私はやりがいを感じるようになっていきました」
もう親戚をたらい回しにされたり、束縛や暴力に苦しめられることもない。
ヘルスを皮切りにソープやデートクラブなどの風俗店で働くようになり、2度目の結婚。やがて、子どもを身ごもったことに気がつく。
「もう妊娠はできないかもしれないと思っていましたから、一切ドラッグをやめてこの命を育てていこうと心に決めました。覚醒剤依存の夫婦の間にまともな子どもが生まれるのか、不安で仕方なかったですね」
22歳のとき、一粒種の旭彦さんを無事に出産。この子のために生きていこうと誓った。
しかし2番目の夫は薬物依存から抜け出せず、家の中で花火を何発も打ち上げて自宅が全焼。
乳飲み子を抱いて竹田さんは裸足で逃げ出した。
離婚を決め、ひとり親になると、昼も夜も働き詰めの生活が待っていた。竹田さんは疲労をごまかすように、また覚醒剤に手を出してしまう。
「早朝から風俗で働き、夜遅くまで水商売で働く生活は睡眠もまともにとれず、気づけば、子育ての忙しさを理由に覚醒剤を打つようになっていました」
28歳のとき、3度目の結婚。夫婦そろって薬漬けの日々が続いていたある日、職務質問され、覚醒剤不法所持で逮捕。初犯のため執行猶予がついた。
だがその矢先、2人は中国窃盗団の片棒を担ぎ、詐欺を手伝ったことで現行犯逮捕。34歳のとき、笠松刑務所で懲役4年の刑に服することになった。