失った左耳の聴力と嗅覚
昭和17年に札幌市で生まれ、製鉄の街、室蘭で育った。1歳でジフテリアにかかり、隔離病院に入院。太平洋戦争が始まり、物資も不足していた。高熱が出ても病院に抗生物質はなかった。
「お袋はオレに死んでほしかったって言ってた。親父は戦争で満州に行ってたから、女手ひとつだったしナ。高熱で頭をやられたら不憫だと思ったらしい。なのに、オレはなぜか生きて帰ってきちまった」
奇跡的に助かったものの、後遺症で左耳の聴力と嗅覚を失った。気がついたのは随分たってからのことだ。
においがしないのも左耳が聞こえないのも、不便ではあっても、当たり前だった。
小学校に上がる前、拾ったガラスのかけらを机に擦りつけ、においを嗅ぐ遊びが流行ったことがある。
「リンゴのにおいがするぞ!」
と近所の子どもたちが騒ぐ。リンゴのにおいとは何だろう。花の香りや、雪解けの春のにおいもわからない。
「トレーシングペーパーを通して世間を見てるみたいな距離感があるんだ。身体だけ大きくて、いつもボーッとして。授業も聞こえねえから勉強も面白くねえ。壊れたやつだと思われて仲間はずれになってたな」
外で活発に遊べなければ、ほかにすることもない。手先が器用な母親の内職を手伝った。編んだセーターをほどいて毛糸を丸め、半端な毛糸玉の残りをもらう。編み物や縫い物に夢中になった。
父が3交代制の製鉄所から帰ってくる夕刻は、家の空気が一変した。
「男が女の腐ったようなまねをするな」
元警察官、しっかりした身体つきで力も強い。満州から戻って以来、父の機嫌がよかった記憶がない。家にいる間はとにかく大声で怒鳴りつけられ、力任せに張り飛ばされることもよくあった。
「その当時は鬼のようなやつだと思ったが、今考えると、親父も戦争に負けてつらかったんだろう。とにかく、長男が男らしくないのが気に入らないんだ。俺はただやられっぱなし。ぶたれてメソメソしてるだけ。叩かれて痛いのはどうってこたあない。これから叩かれるぞ、という時間が怖くて痛えんだ」
安心できる唯一の場所は、社宅の裏の大きなゴミ収集箱。その中にすっぽり入って隠れると、自分だけの特別な空間になった。
「入っちまえばこっちのもんだ。節穴だらけで光があちこちから入ってくる。その光を頼りに編み物するんだ。ゴミ箱の内側の壁の光が目の端で動いててよ、ふっと見ると、外の景色が逆さまに映ってた。俺はピンホールカメラの中で編み物してたんだナ」
小学校6年生までおねしょが治らなかった。
「目が覚めると、また寝小便したなと親父に怒られる。毎日ただ怯えてた。朝が来ても俺には楽しいことなんてひとつもない。生きてることがハナから面白くなかった」
その思いはどんどん大きくなり、中学のころ、1人で地球岬へ向かった。
「死んでみよう」
室蘭駅からバスに揺られて50分。展望台の先に進み、崖っぷちで足元を覗き込むと、100メートルの断崖絶壁。太平洋から押し寄せる波が岩礁にぶつかっている。
「ここに落ちたら痛えだろうな─。すぐにおっかなくなって、バスに乗って帰ってきちまった。身体はでかくなったのに、とにかく気が弱いんだ。親父にも反抗できなけりゃ死ぬのも怖い。だから死なずに今まで生きてる。気が弱いのもいいことあるもんだナ」
「死ねないなら家を出る」と決心し、学校が終わると室蘭港やセメント工場で土方仕事を始めた。
稼いだ小銭の一部を画材に使い、美術部で油絵を描いた。港や工場で働く人を描いたら地元の新聞に掲載された。
高校卒業前、3年生の冬休みに家を出た。母親は家の玄関で、内職で稼いだヘソクリをそっと持たせてくれた。
「見送りは行かないよ。アンタは泣き虫だから、悲しくなったら手を動かすんだよ」
室蘭駅から1人汽車に乗り、函館駅で降りる。冬の津軽海峡を渡り、初めて本州に向かう。上京して何ができるか、先のことはわからないが、あの父親に怯えなくていいことだけは確かだった。
「青函連絡船の船底、3等船室に転がり込んだとき、生まれて初めて、晴れ晴れとした愉快な気持ちになった」