18歳に突きつけられた現実
「お姉ちゃん起きて。お母さんが大変なの─」
1990年1月の早朝のことだった。亞聖さん高校3年生の3学期。大学受験を控えていた彼女は、年の離れた小学6年生の妹に起こされた。
慌てて起きると、母・広美さんが台所でうずくまっていた。顔色が優れない。急に吐き気をもよおしたようだった。
父親の秀哲(ひでのり)さんは早朝に仕事に向かい、すでに家にいなかった。
亞聖さんには、中学3年の弟もいた。3人ともその日が3学期の始業式だった。
ただの風邪にしては様子がおかしい─。そう思った亞聖さんは、広美さんを布団に寝かせ、弟と妹を学校へ送り出し、広美さんの勤め先に連絡、自分も1時間遅れで高校へ向かった。
そして夕方。亞聖さんが帰宅すると、まだ広美さんは横になっていた。やはり具合は悪そうだった。秀哲さんが仕事から戻り、広美さんを総合病院へ連れて行き入院させた。そこで告げられた病名は「くも膜下出血」。そして3日後手術が行われた。
術後、広美さんは命の危機は脱したものの、重い障害が残った。言語障害、右半身不随、そして知能の低下。広美さんは40歳の若さにして重度の身体障害者として生きていくことになったのだ。亞聖さんが振り返る。
「あのとき、受験勉強はしていたものの、特にどこの大学に行きたいという目標もありませんでした。私はとにかく自分の価値観を押しつけてくる父親が大嫌いで、高校卒業後は家を出て1人暮らしをしたいとだけ思っていた。でも、母が倒れたことで、私はまず母の代わりに弟と妹の面倒をみていかなくてはいけないと思ったんですね」
秀哲さんは、自分では叶わなかった大学進学の夢を長女に託すあまり、過剰に亞聖さんを束縛した。そんな秀哲さんは、何事も広美さんまかせで、自分ではお湯も沸かさないような人だった。それは、広美さんが倒れてからも変わらなかった。
そこから亞聖さんの日々は激変した。
病院では母の看病、家では母の代わりとなって家事、そして受験勉強という日々に突入したのだった。
「母が元気だったころは、何もしなくてもご飯が出てきたんですよね。“お茶わん下げといてね”って言われて、“はーい”と生返事だけして、なんてこともしょっちゅう。でも母が入院してからは、ご飯は私が作らないと出てこないし、お茶わんも私が洗わなければ、いつまでもシンクの中にある。
家事なんてほとんどやったことがなかったけれど、“やれる、やれない”じゃなくて“やるしかない”だったんですよ」
弟と妹は無事に高校と中学に進学。しかし、大学受験を目指していた亞聖さんはすべての大学に落ちた。
1年間の浪人生活。2浪は許されず次の受験に失敗したら後がない。
しかし皮肉にも、この浪人期間が自分を見つめ直すいい転機になったという。
「私にとって浪人時代は、母の看病と家族の世話、そして受験勉強が本当にすべてでした。“介護を言い訳にはできない”と必死で勉強しました」
そして'91年2月、亞聖さんは見事立教大学文学部に合格したのだった。