男子にモテながらも、一途な彼女

 亞聖さんの高校の同級生で亞聖さんとは、3年間同じバトン部で過ごした仲間の呉本佐知子さん(50)は、高校時代の彼女の印象をこう話す。

高校時代の亞聖さんは、ほんとにかわいくて目立ってました。全学年の誰もが彼女を知っているくらい。当時、スカートを短くするのが流行(はや)る前に、彼女はすっごく短くして先生に注意されていましたね(笑)。

 明るくてみんなに優しい。当然男子からもモテてましたよ。でも、ちゃんと彼氏がいて。朝、待ち合わせをして学校に来るんですよ。彼氏が遅れてくることもあって、そんなとき彼女は、駅でずっと彼を待ってる。それで2時間目とか3時間目になったり、一途なところのある子でしたね」

野球部が夏の甲子園に出場したとき、チアリーダーの一員として参加したという
野球部が夏の甲子園に出場したとき、チアリーダーの一員として参加したという
【写真】高校時代、チアリーダーをしていた町さん

 呉本さんは、あるとき、亞聖さんが家族の問題を抱えていることを知ったという。

「受験目前のときに担任の先生が彼女に“すぐに病院に行くように”と伝えたことを覚えています。そんな大変な介護をしてたなんて当時はまったく知りませんでした」

 亞聖さんはどんな家庭で育ったのだろうか。母・広美さんは熊本出身、父・秀哲さんは福岡出身と、ともに九州生まれ。2人は東京で知り合い、新婚で暮らしたのは世田谷のトタン屋根のアパートだった。亞聖さんが言う。

両親は大恋愛で駆け落ち同然だったようです。結婚式もしていませんが、写真を見ると2人はとても幸せそうです。ただ、何かあっても、経済的に苦しくても、親は頼れない状況だったんじゃないでしょうか」

 しかし、近所の親しい家族が亞聖さんたちを手助けしてくれた。

 山田寿子さん(76)は、亞聖さんが3歳のころ、広美さんと親しくなった。

「まだ町さんちの下の子が生まれる前にお母さんと意気投合しましてね。お互いお酒が好きなところがね(笑)。お母さんが倒れたとき、町さんのお父さんから電話があって、“大変な病気になっちゃったよ”と彼は電話の向こうで泣いていました。

 あーちゃん(亞聖さんのこと)は、お父さんとうまくいかない時期があって、よくそんなときはうちに来てご飯を食べさせたりしました。小さいときからあの子はしっかりしていて、マラソンやっても、勉強でも、習字でもなんでもよくできました」

 そして、1999年11月9日。広美さんは、自宅で最期の時を迎えた。49歳、あと10日ほどで誕生日を迎え、50歳になるはずだった。その5年後、広美さんの後を追うように秀哲さんがこの世を去った。

母校・さいたま市立浦和高等学校の創立80周年記念式典で司会をしたとき、呉本さんと
母校・さいたま市立浦和高等学校の創立80周年記念式典で司会をしたとき、呉本さんと

「父は母が亡くなって、大きな喪失感を抱えて立ち直れなかったんですね。ろくに食事をせずにお酒ばかり飲んで、自ら死に向かっていったような最後でした。

 思えば母が倒れて障害者になったとき、父もまだ若かったんですね、40代初めのころから50代を迎えるまでの10年間、父は母のために自分の人生を捧げているようなものだったんですね」