「母が亡くなり、明菜とも会えなくなって、もう27年になりますね……」
中森明菜の母・千恵子さんが眠る墓に手を合わせた後、ゆっくりと目を開く。墓石を見つめ、そう静かに語ったのは、3つ上の実兄だ。
「今年の5月1日でデビュー40周年を迎えた明菜さんですが、ご本人が出演するようなテレビ番組やライブなどの活動は何もありません。あるといえば、衛星放送で過去のライブ映像が流されたぐらいで……」(スポーツ紙記者)
2017年に開催されたディナーショーを最後に、姿を消して5年。それでも明菜の復活を待ち望むファンの声は今も絶えない。
それは、家族も同じでーー。
1965年7月、東京都大田区で明菜は産声をあげた。
「父が大森で精肉店を営んでいたころです。自宅にひとりでいた母を突然、陣痛が襲ったのです。自宅に電話がなかったので、母は助産師さんを呼ぶために急いで近所の公衆電話まで行ったんです。そうしたら、そこで半分ぐらい明菜が出てきてしまったみたいで(笑)」
母が名付けた「明るい菜の花で、明菜」
そう当時の状況を明かすのは、冒頭の実兄だ。
「名前は母がつけました。生まれた時季の花ではないですが“明るい菜の花で、明菜”だと、母が言っていました」
明菜が誕生した数か月後、一家は東京都清瀬市へ転居する。母親が名付けたとおり、明るい少女かと思いきや、幼少期はそうではなかった。
「病弱だったんです。よく熱を出して、小学校も休みがちでした。プールに行くと、すぐに唇が紫色になっちゃって」
2男4女からなる6人きょうだいの5番目だった明菜は、母親の千恵子さんが大好きだった。
「もう母にベッタリでした。お出かけするときは母と手をつなぎたがって。母が出かけるときは、駆け寄って“私も行く!”と言ったりね」
しかし、明菜としては自分が家族の“お荷物”という思いが強かった。
過去の雑誌インタビューでも、このように語っている。
《思えば私、デビュー以来ずっと誰かのために歌ってきたような気がします。最初は家族のため。小さい時から身体が弱くて迷惑ばかりかけていたから、「明菜、いいコだね、エライね」って、誉めてもらいたくて》(『SAY』2003年7月号)