ちなみに、秋元は「週刊誌みたいなエッチをしたいけど」という歌詞の「週刊誌」が当初「『微笑』の記事」というフレーズだったことをのちに明かしている。百恵のスタッフが曲名に映画のタイトルなどを使って芸術っぽい雰囲気を醸し出していたのとは対照的だ。

 が、こうした表現の方向を決めるのは実のところ、作詞家でもプロデューサーでもなく、時代や大衆の気分だったりする。バブル景気へと向かう1980年代は日本がどんどん浮かれて軽くなり、欲望に対してもあからさまになっていく時期だった。そこにおニャン子がピタリとはまったのである。

 おニャン子およびそこから派生したソロやユニットの曲は翌々年にかけて、オリコンチャートを席巻。1986年には、全52週中36週の1位がおニャン子絡みという空前のブームが訪れる。

究極のアイドルらしさとフツーっぽさ

 では、おニャン子に集まったのはどんな女の子たちだったのか。

 筆者は当時、このうち7人に延べ10数回インタビューをしたが、共通して感じられたのは「フツーっぽさ」だ。なかでも、一番人気でグループの顔的存在だった新田恵利はそこが際立っていた。

左から、結婚で幸せをつかんだ高井麻巳子、河合その子、渡辺満里奈ら
左から、結婚で幸せをつかんだ高井麻巳子、河合その子、渡辺満里奈ら

 最近もネット記事の取材で「お遊戯の延長」「バイト感覚でした」と振り返っているのを見かけたが、そのあたりが逆に新鮮だったといえる。おニャン子以外のアイドルは、もはや飽和状態というべきアイドルシーンのなかで生き残るため、必死にプロっぽく見せようとしていたからだ。

 アイドルとしてのプロとは、ファンタジーを演じるということ。一方、おニャン子には新田みたいなフツーの女の子がいきなりテレビに出たらどうなるのか、というドキュメンタリーを見るような新鮮さがあった。

 そんななか、聖子はアイドルとしてファンタジーをやりつつ、私生活ではドキュメンタリーをという天才的な演じ分けをしていた。が、並の芸能人ではそこまでできない。

 また、ファンタジーを演じるアイドルというスタイル自体、飽きられつつもあった。それでなくとも、当時の日本はバカバカしいほど明るいものを求めて突き進んでいたから、プロっぽい重さより、アマチュアの軽さがもてはやされた。思春期の男子も、既存のアイドルよりもリアルで身近なおニャン子に惹かれたのである。

 そんなおニャン子のドキュメンタリー感をさらに高めたのが、毎週番組内で行われるオーディションだ。出場者にはすでに事務所に所属する芸能人の卵もいたとはいえ、週単位で新しいアイドルが生まれていく展開は興奮をもたらした。ファンにとっては、可愛い転校生がどんどん入ってくる感覚だろう。