11坪の家に7人で暮らす。漁師町の片隅に
「へき地の漁師町、11坪7人家族育ち」。富永さんは、自身の出自をそんな言葉で語る。
富永さんの出身は徳島県の最東端に位置する阿南市椿泊(あなんしつばきどまり)町。ハモ漁が盛んな人口600人ほどの集落だ。
'67年、地元の漁協に勤める父と専業主婦の母の間に、3人姉弟の長女として生まれた。
「町の人はすべて顔見知り。どこそこの子は足が速い、あそこの嫁さんはナントカ町から来とるとか、お互いのことは常に丸わかり。たとえいじめっ子がいても、地域の大人がみんなでなだめる。貧しいけれどみんなが支え合っている、そんな場所でしたね」
しかし小さな漁師町の生活には、負の側面もあった。
「酔っ払った漁師のおじさんたちが殴り合いのケンカをするのは日常茶飯事。ときに男の人が家で嫁さんを殴って、殴られた女の人が山に逃げる、すると今度は大人たちが捜しに行くこともしばしばです」
男性優位な漁師町では、性差別的な意識も強く、女性の地位は低かった。女性の貧困やDV、女性が満足に教育を受けられない環境を幼いころから目の当たりにしてきた。
富永さんが12歳のころ、父親がこんなことを言った。
「喜代、おまえはな、医者になれんかったら“女中”になれ」
同じ年頃の少女たちは、家業の手伝いに追われ、勉強は後回し。大学に進学する女性もいない。このままなら、自分も漁を手伝い、家事と育児に追われ、ときに酒に酔った男に怒鳴られ、まるで“女中”のように一生を終えていくのだろう。
「女はな、“絶対に人に取られないもの”を身につけるしかない」
この町で女性が経済的に自立することは困難だ。国家資格、しかもその最高峰の医師ならば、酒に酔った男に殴られても奪われることはない─。すぐに父の言葉の意図を悟った。そしてこのひと言が人生を大きく変えた。
「口数は少なかったけど、勉強はできる子でしたね。教科書を見たら、それが“絵”になって、すぐに覚えてしまうんです。ただ当時は医者になるのがどれぐらい難しいことなのか、自分にはどんなハンデがあるのか、そんなこと考える隙もなく、父の言葉は絶対。すぐに“私は医者になる!”と決意しました」
それ以降、持ち前の負けず嫌いも相まって、富永さんは勉学の道に邁進することとなる。通学バスの中でひとり単語帳をめくる日々。高校生のころ、顔の皮膚炎に悩んだことからも「医師になるなら皮膚科医になろう」と決意したのだという。
そして先述の「教科書を見ただけで覚えてしまう」という言葉どおり、進学塾にも一切、通うことなく'86年、徳島大学医学部に見事、合格を果たしたのだ。
「同級生からは“塾にも行かず家庭教師もつけていない君が、いちばん安く大学に入ってるよ”と言われました」
最近では、「子どもを医師にさせるには5000万円かかる」などという説もある。子どもを医師として大成させた生家について話は及んだ。
富永さんは父母と富永さんと2人の弟、父方の祖母、そして祖母の甥の7人家族。
なかでも「大正7年生まれの祖母の影響は大きいですね」と富永さんは語る。
地元の漁師だった祖父は太平洋戦争に出征、ガダルカナルの戦いで命を落とした。祖母は2人の男児を抱えた『戦争未亡人』となった。さらに戦争孤児となった甥っ子を引き取り、3人の男児の子育てを一手に担ったという。
「漁師町で船に乗れない女が1人で暮らしていくには、商売しかない。そう祖母は思ったのでしょう」
生鮮食品は、足が早く競合も多い。そこで祖母は、菓子類やアイスクリームなど日持ちのする商品に目をつけた。さらに夏場には綿あめ、冬場には漁で冷え切った男たちの身体を温めるたこ焼きが店頭に並んだ。いずれも原材料は日持ちし、仕入れ費用も廉価。女手ひとつでも商売を成り立たせることができる、なんとも見事な経営戦略だ。
「私も10歳から祖母の横でたこ焼き屋の手伝いをしていました。祖母からは“不利な条件の中で、どうやって戦うか?”という英才教育を受けたのだと思います。この大切な教えは、今も病院経営に活かされています」